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zoom RSS 北京 怡親王の子孫が語る当時の生活

<<   作成日時 : 2011/06/17 15:20   >>

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這里是北京という番組で、怡親王(怡亲王)を取り上げていた。九代にわたり親王の地位を築いてきた家柄で、番組の中ではその子孫である爱新觉罗·啟运(愛新覚羅・啓運)という人がご先祖様についていろいろ語ってくれる。
話に出てくるのは、初代怡親王の胤祥(允祥)、二代目弘晓、九代目(末代)毓麒とその息子の恒枢。
恒枢が啓運氏の父君様で、末代怡親王・毓麒は祖父上様にあたる。

番組はこちら。「2岁王爷的末代生活」
http://space.btv.com.cn/video/VIDE1306809944436410

面白かったので忘れないようにメモをしておく。
初代怡親王・胤祥の王府の位置が地図で紹介されていたが、王府井大街・师府园胡同・校尉胡同・金魚胡同に囲まれたエリアになっていた。胤祥が死んだ後、子孫はここに住み続けず賢良寺というお寺に改築してしまうのだが、それは胤祥の遺言に従ったものだったそう。

北極閣にある怡親王府。啓運氏の祖父上様・怡親王毓麒も、父君様・恒枢もここで生まれたのだそう。啓運氏の記憶ではこの敷地は干面胡同あたりまで広がっていたそうだが、それが本当だとするとかなり広い敷地だったということになる。なぜこの屋敷が寧郡王府と呼ばれているかというと、昔、雍正帝がこの家系の安泰を図るために怡親王と寧郡王の二つの爵位を与えたからなのだそうだ。(その後政変があって怡親王だけになってしまった)。番組ではここではかつて義和団を受け入れ住まわせ食事の世話もしていたというエピソードを紹介している。

朝陽門内の怡親王府。今は孚王府と呼ばれているそのわけは、道光年間の六代怡親王・載垣のとき爵位を剥奪され、道光帝の息子・孚敬郡王(九王爷)の屋敷になったから。啓運氏が祖父上様・毓麒から聞いた話によると、毓麒が怡親王に封ぜられてからは北極閣ではなく、こちらの屋敷に引越しをしたのだそう。
この屋敷にかつて住んでいた二代目怡親王・弘晓は文学を愛した人で、詩人でもあり蔵書家でもあった。紅楼夢に登場する北静王・水溶のモデルになっているのだとか。で、乾隆帝が四庫全書編纂に伴い私蔵書物を差し出すよう全土に御触れを出したとき、この家では親王の特権を生かしそれを免れ、清代における四大個人蔵書の一つにあげられる「明善堂」を残していた。
後に、八ヶ国連合軍が北京に侵攻したとき、紫禁城や各御苑だけでなく各王府も攻撃され、この「明善堂」に残された貴重な書物もやられてしまったそう。

毓麒は2歳で怡親王に封ぜられ8歳のときには溥儀の皇帝即位儀式に参加しているのだが、確かに溥儀がワーワー泣いていたのを覚えているそうだ。

毓麒本人の正式な冊封儀式は10歳になってから行われた。ちょうど屋敷で映画投影機を買ったばかりで、世界初の映画の一つと言われる「水浇园丁(日本語:水をかけられた散水夫)」に夢中になってしまい、儀式に行くのを忘れしまったという。番組では触れていないが、きっと屋敷中の大人たちが総出で探し出し、紫禁城になんとか連れて行って事なきを得たってところだろうと想像がつく。
儀式が終わってから、大人たちに「皇帝と太后から何を賜ったの?」と聞かれたが毓麒は黙ったままだったそう。本当は「(水浇园丁に出てくる)ホースがほしかったな、宦官たちに水をかけるホースを」って思っていたのだそうだ。
その映画はこちら。古典的ギャグとはいえ、映画なんて見たことない子供がこんなのを見てしまったら、誰もがあのホースがほしいと思うだろう。また、王爷にとって宦官は苛めて何ぼのもんだったから、宦官に水をかけたいって思うのは自然なこと。
http://www.tudou.com/programs/view/qoL3C5GqjDg/

当時の貴族の子供は5、6歳から勉強を始めた。毓麒が通ったのは「陸軍貴胃学堂」といい、場所は清陸軍部と海軍部旧址(もしくは段祺瑞執政府旧址、張自忠路3号)の敷地の東側。ここに当時の親王家・郡王家のお坊ちゃまが集まる。勉強は厳しかっただろうが、同じ年頃の子供が集まるのだから楽しくないわけが無い。そこで流行ったのが「王府夜惊魂」という遊びだった。

特に毓麒は怖い話が大好きだった。昼間でも屋敷の外に行くのを怖がるほどビビッたくせにやっぱり好きでたまらない。大人たちは毓麒を喜ばせようといろんな怖い話を外から仕入れてきては彼に話す。で、次の日学堂に行ってからその怖い話をみんなに聞かせてあげる。だからあっという間に広まって、そのうちどこの王府でもお化けが出没する羽目になった。
中国では1938年に「13号凶宅」という映画が上映され、その中に「二龙路的郑王府是鬼宅」とはっきり言っているのだそうで、当時郑王府(鄭王府)の子孫が裁判に訴えて騒ぎにもなったという。(ちなみに郑王府は二龙路近くの大木倉胡同にありますが見学できません)
これは前から見た写真。もちろんおどろおどろした雰囲気はなし。
http://33665307.at.webry.info/201101/article_5.html

1912年宣統帝が退位したとき当時12歳の毓麒も親王を退位した。学堂に通うこともなくなった。

1931年溥儀は東北に行った。毓麒の長男・恒枢(啓運氏の父君様)も“御学生”として(実際は身辺警護や雑用係、ときに八つ当たりの相手をさせられたらしい)行った。

1931年、北京で流れたニュース。末代の克勤郡王(これも“鉄帽子”と呼ばれた一流のお家柄)・宴森が生活に困りなんと人力車を引いて暮らしているというものだった。当時は皇族も落ちぶれて、骨董だけでなく、テーブルやいすまで屋敷前に並べて売りに出したものだという。
実際、毓麒も西四牌楼の下で背中を丸めて客を待っている宴森を見かけたことがあるのそうだ。
怡親王の家に関しては、毓麒の代まではまだ良かったが、恒枢の代になると働かなくてはならなかった。番組では恒枢がどうやって満州を離れたのか触れていないが、恒枢は「北京民艺剧团」に入って宮廷貴族の衣装の監修を務めたのだそうだ。一般市民にとって宮廷の服装は未知の世界であり、貴族の文化・生活を熟知している恒枢はきわめて貴重な存在だった。
裏話をいろいろテレビで紹介してくれた啓運氏も貴重だと思う。検索したら彼の著書まで出てきた。宣伝中だったのかな。こんな本です。
http://read.dangdang.com/book_6684
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