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zoom RSS 北京 中国国家博物館の蝋人形 現代文化名人その5

<<   作成日時 : 2016/06/27 18:51   >>

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㉗梁思成(1901—1972) 建筑学家、建筑史学家、建筑教育家。
父親は清政府の迫害を避け渡日した清末改革家の梁启超。思成は東京で生まれた。
1912年辛亥革命の後、父母とともに帰国、1912〜1914年北京崇コ国小や汇文中学に在学。
1915年北平清华学校に入学、1923年清华学校高等科を卒業。
1924年林徽因とともにフィラデルフィア市にあるペンシルベニア大学建筑系に学び、1927年学士および硕士の学位を取得、そののちハーバード大学で建筑史を学び中国古代建筑を研究。
1928年林徽因と結婚、8月帰国、沈阳东北大学で中国现代教育史上初の建筑学系を創設。
1930年张锐とともに天津市规划に参与、「天津特别市物质建设方案」で受賞。
中国東北部が占領された1931年北平に戻り、中国营造学社(中国伝統建築物の研究と保護のために造られた学術団体)で法式部主任を務める。
1932年故宮にある文渊阁の修復工事を担当。「清式营造则例」を著す。
1937年より国内15の省を回り唐、宋、辽、金、元、明、清各代の古建筑遗物二千件を記録。
1944〜1945年教育部战区文物保存委员会副主任を務める。
1946年アメリカ講演。イェール大学より教授に招聘、联合国大厦设计顾问建筑师を務める。プリンストン大学より名誉文学博士学位を授与。同年清华大学に建筑系を創設。
1948年国共内戦の平津战役が起こる前に「全国文物古建筑目录」を作成、北平の古跡を砲火から守るため人民解放军にこれを提供した。
新中国になると清华大学で教授を務めるほか、北京市都市计划委员会副主任、中国建筑学会副理事长…など多くの役職に就いた。
1950年陈占祥とともに北京市规划方案「关于中央人民政府行政中心位置的建议」を提出、高層建築を建てない・古建筑と城墙を残し旧北京城を保護する・西郊に新しい北京の街をつくることを主張するも採用されなかった。そののち何度も申請し北海にある团城は守られた。
1953年5月より北京市の牌楼取り壊しが進む。これより古建筑の大規模取り壊しが始まる。北京古城保護を主張し批判される。北京市副市长吴ヨと論争になる。
文化大革命になると复古典型であるとみなされ家が襲撃に遭い書籍や資料をすべて没収された。
1963年扬州の鉴真和尚纪念堂を設計、1973年落成、1984年に中国优秀建筑设计一等奖を受賞。
1972年北京で死去。
1988年国家自然科学奖一等奖を受賞。
・梁思成と林徽因は中华人民共和国国徽と人民英雄纪念碑の設計に参与している。
・北京の故居について。梁と林が1931〜1937年まで暮らした場所は、北京市东城区北总布胡同24号の四合院。2009年商業利用のため取壊しになり、実際に门楼と西厢房が壊されたところで報道で大きく取り上げられた。それを受けて市规划委员会は工事を中止させ、东城区文委も修復工事の計画を示していた。ところがすでにほとんど壊されていたことが2012年に判明。文物法に従い建设单位は罰金50万元の支払いと建物の原状回復を命じられた。
その後直ったという記事が出ていないようなので、今はどうなっているのかわからない。

㉘林徽因(1904—1955) 建筑学家、文学家。
浙江杭州生まれ。祖父は进士出身。父の林长民は早稻田大学卒業(1902〜1909年)、北洋政府で司法总长などを務めている。
1916年父親が北洋政府の仕事とため家族で北京に転居、英国教会の北京培华女中に入学。
1920年父親と欧洲歴訪、ロンドンで女性建築士に会い建筑学を志す。父の弟子で詩人の徐志摩と交流、詩への興味を持つ。
1921年帰国、培华女中で引き続き学ぶ。
1923年徐志摩や胡适らが新月社を立ち上げる。林は新月社の文艺活动に参加、タゴールの诗剧「チトラ」を英語で演じる。
1924年建築学を学ぶため渡米。梁とともにペンシルベニア大学に入学。
1927年同大学を卒業、イェール大学の戏剧学院に入学し舞台美术设计を半年学ぶ。1928年梁と結婚。
1928年夫婦で帰国、东北大学建筑系に招聘される。翌年东北大学にて雕饰史と专业英语を教える。
1930〜1945年全国15の省を回り古建筑考察を行う。
1931年北平中国营造学社に招聘。1932年北平大学の地质馆と灰楼学生宿舍を設計。
1931年4月徽音のペンネームで詩「谁爱这不息的变幻」を発表。
1937年山西五台山で中国で最も古い木结构建筑(唐代)の佛光寺大殿を発見。盧溝橋事件が起こり調査を中断。占領された北平を離れ、家族で昆明に避難。
1938年云南大学の女生宿舍を設計。
1940年梁の職場である中央研究院の移転に伴い四川宜宾附近の李庄に転居。
1946年8月家族で北平に戻る。清华大学の教师住宅の設計をする。
1948年「文学杂志」で「病中杂诗」を発表。同年年末北平が解放军に包囲され、古建筑が兵火に焼かれると夫婦で心配する。
1949年解放军の求めに応じ「全国文物古建筑目录」を編纂。これは後の「全国文物保护目录」となる。同年、林は清华大学建筑系の一级教授の招聘を受ける。
1950年全国政协一届二次会议に参加、北京市都市计划委员会委员兼工程师に任命される。「城墙公园」構想を提出。国徽の図案デザインに参加。
1952年人民英雄纪念碑建筑委员会の委员に任命される。「中山堂」「北海公园」「天坛」「颐和园」「雍和宫」「故宫」など古建筑を紹介する文章を執筆。
1953年北京で牌楼や古建筑取壊しが始まる。梁は吴ヨと激しい論争を起こし、林もまた吴ヨと衝突したことで病状を悪化させる。
1954年北京市人民代表大会代表になる。
1955年同仁医院にて死去。享年51歳。追悼会は金鱼胡同贤良寺で行われた。八宝山革命公墓に埋葬され墓碑には花圈を刻んだ汉白玉が使われているが、それはもともと人民英雄纪念碑のレリーフサンプルの一部だった。
・林徽因の百度説明では奈良轰炸の件に触れている。日本の古都・京都奈良を誰が守ったのかについて検索すると梁は京都奈良の恩人だという記事が出てくる。半面、そうじゃなくてラングドン・ウォーナーではないかとか、梁はアメリカ側に意見を言ったかもしれないがそれが実際に影響力があったのかわからないという記事やブログもあった。かささぎごときには難しい問題だった。ただ、王军著「城记」(邦題は「北京再造」)という本、いつか読んでみたいなあと思った。

㉙田汉(田漢1898—1968) 文艺活动家、剧作家。
湖南省长沙县生まれ。1911年长沙修业中学预科に入学、辛亥革命では湖南革命党が組織する学生军に加入。1912年长沙师范学校で公费生として入学。
1916年湖南留日学生经理员をしていた叔父の協力で渡日、日本东京高等师范学校に入学。
1919年李大钊らが東京に作った少年中国学会に加わり、诗歌や评论を発表。
1920年郭沫若、宗白华との共著「三叶集」を出版。
1921年郭沫若、成仿吾、郁达夫らと创造社を立ち上げ、新文学の活動をした。
1922年帰国、上海中华书局编辑所で働く。
1924年「南国」を創刊。このころから长沙第一师范学校、上海大学、大夏大学で教鞭をとる。
1927年上海艺术大学で校长に就任、文学科主任を務める。话剧「苏州夜话」などを創作。欧阳予倩、周信芳らと演出。
1928年徐悲鸿、欧阳予倩と南国艺术学院を創立。南国社を立ち上げる。新戏剧运动を推し進める。
1930年中国左翼作家联盟成立大会に参加。中国自由运动大同盟に参加。「我们的自己批判」を著す。
1931年聂耳と知り合う。
1932年中国共产党に入党、党の文艺工作を行う。映画を手掛け「青年进行曲」の台本を書く。
1934年故事「风云儿女」を書く(後に夏衍が映画台本に仕立てた。映画主題歌「义勇军进行曲」の作詞は田汉)。
1935年剧本「回春之曲」を書く。国民党に逮捕される。同年釈放。
1937年盧溝橋事件後话剧「芦沟桥」を書き演出を手掛ける。上海が堕ちると长沙や武汉で抗日统一战线工作を行った。中华全国戏剧界抗敌协会に参加した。
1938年武汉にて国民政府军事委员会政治部第三厅に参加、艺术宣传工作を担当した。
1940年重庆にて欧阳予倩らと「戏剧春秋」を立ち上げた。桂林にて民间抗日演剧团体を立ち上げた。
1949年以後、文化部戏曲改进局、艺术局局长を務めた。
1966年文革中、秦城监狱に投獄され、1968年獄中死。
1970年田汉、周扬、夏衍、阳翰笙の“四条汉子”大規模批判が行われる。
1975年に“叛徒”であると宣言され、党籍永遠はく奪される。よって田が作詞した歌が歌えなくなり、正式の場では国歌演奏のみにするか、新しい歌詞「继续革命的战歌」を歌った。集会の場では「东方红」と「大海航行靠舵手」のみが歌われた。
1979年名誉回復、北京八宝山革命公墓で追悼会が行われた。
1982年第五届全国人民代表大会第五次会议にて中华人民共和国国歌は「义勇军进行曲」であると再決定。
・北京の故居。北京市东城区细管胡同9号院。1953年周总理の指示で購入し田を住まわせた。「白蛇传」「谢瑶环」「关汉卿」などの作品がここで書かれた。ちなみに1976年の唐山地震で奥さんが亡くなったのもここ。後に剧协宿舍として使われたが田汉が住んだ北房前廊以外は当時のまま残っている。

㉚聂耳(聶耳。1912—1935) 作曲家、音乐活动家。
云南省昆明生まれ。1919年昆明县立师范附属小学入学、1922年昆明私立求实小学高小部へ転入、学杂费減免待遇を受ける。幼い頃より民族乐器や民间音乐に触れていた。1925年云南第一联合中学入学、进步学生运动に参加。1928年云南省立第一师范学校高级部の外国语组に入学し英語を学ぶ。バイオリンを習ったり中国共产主义青年团による读书会に参加したり共产党地下党の济难会に参加したりした。
1928年正式に中国共产主义青年团に加入、滇系军阀の学生军にて訓練を受ける、特务连に入る。
1929昆明省立第一师范に戻り学業を続ける。
1930年逮捕から逃れるために上海に行く。反帝大同盟に加わる。
1932年联华影业公司で働く。苏联之友社の音乐小组に参加。中国新兴音乐研究会をつくる。左翼戏剧家联盟音乐组に参加。
1933年中国共产党に入党。
1935年义勇军进行曲を作曲。国民党から逃れ渡日。(この年田漢は逮捕されている)
1935年7月藤沢市の鹄沼海滨で遊泳中に溺死。
1938年昆明西山に埋葬。1954年人民政府が墓碑を修建、郭沫若の字で「人民音乐家聂耳之墓」と刻む。1980年广大人民群众の求めに応じ再建、墓碑の形は弹拨乐器になっている。4A景点であり门票を買うことになっているらしい。
1954年藤泽市鹄沼海岸に聂耳纪念碑が建てられる。1963年郭沫若の字で「聂耳终焉之地」と書かれた花岗石纪念碑を再建。
・藤沢市の記念碑について。昆明─藤泽于1982年结成友好城市。
http://gb.cri.cn/19224/2008/12/01/145s2344935.htm

㉛夏衍(1900—1995) 作家、文艺评论家、翻译家、社会活动家。
浙江省仁和县(のちの杭县)生まれ。1908年杭州正蒙小学二年级に編入するも2年で退学。1912年コ清县立高等小学入学。1915年公費生として浙江省立甲种工业学校の染色科に入学。1919年五四运动が起こり、浙江学生运动に参加し学生会联合会代表を務める。宰白のペンネームで文章を発表し陈独秀に称賛される。
1920年甲种工业学校の派遣で公費の日本留学を果たす。
1921年2月日本北九州户畑町の明治专门学校电机科に入学。
1923年夏休みを利用し朝鮮経由で中国東北部と北京を旅行する。
1924年初の小説作品を上海の雑誌に寄稿。蔡淑馨と結婚。(1925年に省女师を卒業した蔡も渡日し奈良女子高等师范学校に入学している。学校が休みの時は京都に借りた小屋に夫婦で過ごした。)
同年11月孙中山が門司を訪れたとき、夏は同級生と送迎に行き面会する。国民党に入党する。
1926年3月明治专门学校を卒業、工学士学位を取る。4月九州帝国大学工学部冶金科に推薦入学。10月東京に出て国民党中央海外部驻日神田总支部党委と组织部长に着任。
1927年命令を受け帰国するも国民党から指名手配を受け当時に党籍を失う。6月上海にて中国共产党に入党。
1929年中国左翼作家联盟の創立準備に参与。上海艺术剧社を立ち上げる。
1930年左联誕生、夏は魯迅らとともに主席团に推されまた执行委员に選出される。同年、田汉らと中国左翼剧团联盟を創立。この年上海で結婚披露宴を開く。
1935年「风云儿女」を編纂。
1937年三幕剧「上海屋檐下」を書く。抗日救国を訴える救亡日报を上海で創刊。郭沫若が社長兼发行人を、夏衍が总编辑を務めた。
1938年救亡日报が广州にて復刊するも日本軍の攻撃を受け桂林に避難、夏は李克农、郭沫若、周恩来と今後の方針を相談、翌年桂林で復刊。
1941年救亡日报が国民党当局に差し止められる。
1945年话剧「芳草天涯」を書き重庆で上演。
1949年华东军事管制委员会文教委员会副主任や上海市委宣传部副部长を務める。中国文联第一届全国委员会委员や中华全国电影艺术工作者协会委员に選出。
1950年上海市委常委、上海市委宣传部部长、上海市文化局局长に就任。上海人民艺术剧院ができると院长に就任。
1955年潘汉年冤案に巻き込まれ中组部の審査を受ける。
1966年文化大革命が始まり群众大会で批判される。红卫兵に捕まる。监狱生活は8年に及ぶ。
1977年党との関係回復。
文革後に中日友好協会会長を務めていた。
1994年现代文学馆に蔵書2800冊(第一批)寄贈、人民大会堂で「纪念夏衍同志从事革命文艺工作65周年报告会」が開かれ、国务院より「国家有杰出贡献的电影艺术家」の称号を受ける。
1995年北京医院にて死去、享年95歳。
・北京の故居について。南新开路北竹竿胡同20号にあったがすでに取り壊されている。

㉜ 冼星海(1905—1945)作曲家。
澳门生まれ。6歳でシンガポールに移住、养正学校に入学、音楽の才能を見出され校内の军乐队に入る。1918年13歳で岭南大学(今の中山大学)に入学、バイオリンを正式に学ぶ。1926年北京大学音乐传习所に入学、学校图书馆で助理员を務めながら作曲とバイオリンを学ぶ。1928年上海国立音乐学院に入学、バイオリンとピアノを学ぶも学生運動に参加し退学。
1929年パリで勤工俭学。
1934年中国初の学生として巴黎音乐学院高级作曲班に入学、作曲と指挥を学ぶ。みすぼらしい姿だったため受験会場で止められかけたが試験をした後でその優秀ぶりに学校側から荣誉奖を授与され物資面で援助を受けた。
1935年同校卒業、帰国。抗战歌曲の創作や救亡音乐の活動に従事。群众歌曲を大量に創作。また映画「壮志凌云」「青年进行曲」や话剧「复活」「大雷雨」などを作曲。さらに上海救亡演剧二队に参加したり、武汉で救亡歌咏运动を行ったりした。
1937年抗战が始まると上海话剧界战时演剧二队に参加、抗日文艺宣传を行った。
1938年延安の鲁迅艺术学院が教授として招聘、音乐系主任を務める。延安にいた一年半で「军民进行曲」「生产运动大合唱」「黄河大合唱」「九·一八大合唱」などを作曲。冼の月給は15元(当時朱コ总司令の月給はたった5元)。
1939年中国共产党に入党。
1940年ソ連に行く。記録映画「延安与八路军」の音楽担当であったが、1941年苏コ战争が起こり映画製作計画が中止。アルマトイで足止めに遭い肺病を患うも作曲活動を続ける。
1945年モスクワの病院に入院、白血病で死去、モスクワ近郊の公墓に埋葬。
1983年遺骨が北京に戻され、1985年に広州市天河区麓湖にある星海园に埋葬されている。
・有名な歌がたくさんあるそうだ。中には「战时催眠曲」なんていうのもあるがただの子守歌ではなくやっぱり勇ましかった。
http://zhidao.baidu.com/question/34735611.html?qbl=relate_question_0&word=%D9%FE%D0%C7%BA%A3%B5%C4%D7%F7%C6%B7
・中国のピアノ協奏曲に有名な「黄河」があるが、この曲のもとになっているのが冼が作曲した救亡歌曲「黄河大合唱」なのだそうだ。心して聞くべき曲であったこと、初めて知った。

㉝梅兰芳(梅蘭芳。1894—1961) 京剧表演艺术家。
光绪二十年、前门外李铁拐斜街にある京剧世家旧居に生まれる。
光绪二十五年(1899年)百顺胡同ちかくの私塾に学ぶ。
光绪二十八年(1902年)吴菱仙に師事、青衣を学ぶ。また秦稚芬や胡二庚から花旦を習う。
光绪三十年(1904年)广和楼にて初舞台。
光绪三十三年(1907年)百顺胡同から卢草园胡同へ転居。喜连成の一員として出演し、班主の叶春善に師事。
清宣统二年(1910年)王明华と結婚(一男一女をもうけるが共にはしかで死亡)。趣味で鳩を飼い始める。
民国元年(1912年)初めて谭鑫培と共演。
1913年初めて上海で公演。昆曲を学び始める。北京市内の鞭子巷三条に転居。
1914年京剧の陈コ霖に師事。昆曲の乔兰、李寿山、陈嘉梁に師事。路三宝、王瑶卿に学ぶ。
1915年北京の吉祥园にて时装新戏や古装新戏を演じる。スポットライトを取り入れる。絵画を習い、陈师曾、金拱北、姚茫父、陈半丁、齐白石らと交流。
1918年上海移住。
1919年4月〜5月日本帝国剧场の依頼を受け喜群社を引き連れ妻同伴で訪日。東京大阪神戸などで上演する。
1921年吴菱仙の仲人で福芝芳と結婚(どうしても跡取りが必要だった。結果五男四女に恵まれるが成人できたのは4人だけ)。杨小楼と崇林社を立ち上げる。
1923年京剧の伴奏として京二胡を梅が初めて採用。これより京二胡は京劇の主要伴奏乐器となった。北京の开明戏院や真光剧场で新戏を上演。
1924年10月9日〜11月22日日本帝国剧场の依頼を受け二回目の日本訪問。東京京都大阪などで上演。同年北京でタゴールに会う。
1927年京剧の四大名旦のトップに選ばれる。
1928年アメリカ公演、胡适に会う。北京の中和戏院で新戏を上演。
1929年最初の妻・王が天津で死去。梅と福は香山に近い万花山の土地を買い墓地に整え埋葬した。
1930年承华社剧团の劇団員を連れて横浜や、カナダとアメリカの各地で公演。
1931年満州事変が起こり、1932年梅は北京から上海に移住。
1935年ソ連で公演、スタニスラフスキーやブレヒトに会う。ポーランド、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、イギリスや、エジプト、インドを訪問。
1937年第二次上海事変が起こると、1938年香港に移住、香港で公演する。
1941年日本が香港を占領、梅は髭を蓄え舞台に立たなくなる。
1942年上海に移住。訪問客に会わなくなる。
1945年終戦。髭を剃って再び舞台に立つ。
1948年カラー映画「生死恨」に出演。
1949年中华全国第一次文学艺术工作者代表大会に参加。全国政协常务委员に選出される。
1951年中国戏曲研究院院长に任命される。北京に戻る。住所は护国寺街1号(今の梅兰芳纪念馆)。
1952年ウィーンの世界人民和平大会に参加。北京でガリーナ(ソ連のバレリーナ)に会う。
1953年中国戏剧家协会副主席に選出。
1954年中华人民共和国第一届全国人民代表に選出。
1955年中国京剧院院长に任命。舞台生活50年纪念活动が行われる。映画「梅兰芳舞台艺术」が作られる。
1956年5月26日〜7月16日朝日新闻社らの招待を受け、周恩来总理直接关心のもと、団長を梅兰芳に阵容最强大と言われた访日京剧代表团が結成され、東京大阪京都名古屋九州などで公演が行われた。梅の日本訪問はこれが3度目だった。
1957年梅剧团团长に任命。国际舞蹈协会から荣誉奖章を受賞。中国戏曲学院の院长を務める。
1959年中国共产党に入党。
1961年5月中国科学院で「穆桂英挂帅」に出演、これが最後の舞台となった。8月北京にて死去、享年67歳。
・お墓について。人民政府は国葬待遇を決定、天安门新华门で半旗を掲げ、墓地として八宝山烈士公墓にある瞿秋白の隣を用意したが、妻の福は万花山の墓地(先妻・王が埋葬されている)を希望、周恩来は遺族の意向を尊重した。(後に福もこの墓地に埋葬された)
・梅の抗日エピソードについて。1937年盧溝橋事件が起こると北京を離れ香港上海に移住した:1941年12月香港が日本に占領されると髭を蓄え舞台を拒絶した:上海で生活に困り絵を描いて売ろうとしたが日伪汉奸の嫌がらせに遭い売るくらいならと破いて捨ててしまった:汪精卫の特務がやってきて舞台に立つよう迫ると子供用に用意していた予防注射を自分に注射し具合を悪くして断った:特務が拷問道具と硝酸を持ち出し中日亲善公演をするよう脅迫したが拒絶した。
・北京の故居について。場所は西城区护国寺街9号。清末に庆亲王奕王府の一部だったところで、两进式の典型的な四合院。中国開放後に修理され梅がここに10年間暮らした。亡くなった後家族が写真や台本などの貴重な資料を国に寄付し、1986年より北京梅兰芳纪念馆記念館として正式に对外开放されている。展示は生前使っていた原状通りに配置されており、书房の书柜には手で書き写した大量の台本が収められ、壁には张大千、齐白石、陈半丁ら有名画家の作品が掛かっている。
………

以上33名。本当は35名であるはずなのだけど、HPには33人分の名前しか載ってない。ということは残りの二人は隠れキャラ?ぜひ実際に見に来てくださいという国博側の戦略なのであれば、かささぎはそれに大喜びで乗っかりたい。また行きたいなあ。
研究とか寄港とか公演とか亡命とか都合が悪くなって渡日したという理由以外の、ちゃんと留学しに日本にやって来た人の数は33名中12名だった。予想通りかなり多かった。
調べてみてわかったのは、さすが「文化名人」と称されるだけあって、どの人もすごい人で魅力的だったってこと。それがことごとく文革でひどい目に遭っていて、本当に怖いと思った。
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