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zoom RSS 北京 中国国家博物館の蝋人形 現代文化名人その4

<<   作成日時 : 2016/06/21 00:02   >>

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芸術エリア。
Q李叔同(1880—1942) 教育家、书法家、画家、僧人。
天津河北区生まれ。裕福な家で幼い時から古典や礼節や书法を学びまた仏教の薫陶を受ける。16歳で辅仁书院に入学、制义(八股文)を学ぶ。18歳で結婚。ピアノを購入作曲を学ぶ。维新变法を支持するも失敗すると上海のフランス租界に逃れ上流社会に交遊。城南文社に加わる。上海书画公会を立ち上げる。
1899年友人の许幻园の家の城南草堂に住み、许幻园・张小楼・蔡小香・袁希濂をまとめて天涯五友と称す。“文人雅士”な生活を送る。
1901年南洋公学(西安交通大学、上海交通大学の前身)の经济特科班に入学。このとき教えていたのが蔡元培で、同級生には黄炎培、邵力子、谢无量らがいた。
1903年学校でボイコット運動が起こり退学。
1906月1月東京で音乐小杂志を編集。7月李哀の名で日本の名士と随鸥吟社を創立。9月李岸の名で东京美术学校油画科に入学。同級生と春柳社という劇団を作る。川上音二郎や藻泽栈二朗の新派劇を研究。
1910年帰国。天津北洋高等工业专门学校の图案科主任教员を務める。
1911年卒業制作の自画像を描き、3月に东京美术学校を卒業。付き合っていた日本人の美術モデルを連れて帰国。直隶高等工业学堂任图画教员を務める。
1912年城东女学で文学と音乐を教える。南社に加わる。文美杂志を編集する。浙江两级师范学校で音乐と图画を教える。
1915年南京高等师范学校の图画・音乐教員を兼任。
1916年日本の雑誌を読み修行方法としての断食を知り、杭州にある虎跑定慧寺に行って17日間の断食を行う。その後食事は精進料理になる。
1918年虎跑定慧寺にて剃髪、正式に出家。法名は演音、号は弘一。
1921年日本へ旅立つ前の丰子恺に会う。
1942年63歳で安详西逝。
・李叔同は中国人で初めて话剧团体を作った人。また中国留学生として日本でほぼ最初に西洋美術を学んだと言っていい人。また有名な「送别歌」の歌詞(长亭外,古道边,芳草碧连天…ってやつ。超イイ)を書いた人。この歌は1907年日本で「旅愁」として流行しており、李は留学時代に聞いていて印象に残っていた。後に许幻园との別離の際にこの曲に歌詞をつけて贈った。
・当時日本で西洋美術を学んでいた留学生達の様子:http://cul.qq.com/a/20130322/000002.htm
・李が出家してしまって、日本人妻の誠子さんはどうなったかが気になった。手紙が残っていてそれによると、上海の家や財産をすべて奥さんに譲ると書いてあるから、誠子さんは子供と上海に暮らし続けたのかなあと思うのだけど詳しいことはわからなかった。
http://mt.sohu.com/20150703/n416129574.shtml
・2015年弘一法师の書跡「放下」(たった二文字)のオークション落札価格が471.5万元(大体9000万円ぐらい)。2011年名作「华严集联三百」(冊子になっているらしい)の落札価格は6095万元(当時のレートで大体1億5000万円ぐらい)。

R丰子恺(豊子ト。1898—1975) 散文家、漫画家、翻译家。中国的“漫画之父”。
浙江省嘉兴市生まれ。
1914年浙江省立第一师范学校に入学、李叔同に绘画と音乐を、夏丏尊(国木田独歩とか田山花袋の蒲団とか翻訳した人)に国文を学んだ。
1919年卒業、中华美育会を立ち上げ雑誌「美育」を創刊。上海专科师范学校を創立。
1921年渡日、绘画と音乐と外国語を学ぶ。
1922年帰国。浙江上虞春晖中学で图画と音乐を教える。
1925年翻訳した厨川白村著「苦悶の象徴」が出版される。(この本には魯迅訳本もある)
1926年开明书店を設立。上海艺术大学で教鞭をとる。
1927年弘一法师に倣って仏門に帰依、法名は婴行。
1928年翻訳した黒田鵬信著「芸術概論」出版。
1933年故郷に自宅となる缘缘堂を建てる。(1938年日本軍の砲火に遭う、1985年再建、今は記念館)
1937年「漫画日本侵华史」を出版。
1939年浙江大学で副教授。
1942年重庆国立艺专で教授兼教务主任。
文革の時は林彪と四人帮に罪名をつけられ迫害を受けた。
1975年死去。
1987年翻訳した「源氏物語」が出版される。
2008年翻訳した「落窪物語」が出版される。
2010年翻訳した徳富蘆花著「不如帰」が出版される。
・有名な著作には「缘缘堂随笔」「缘缘堂再笔」「随笔二十篇」「画中有诗」「白鹅」などがある。
・現在教科書に取り上げられている文章には「手指」「白鹅」「竹影」「山中避雨」「给我的孩子们」「黄山松」「云霓」「送考」がある。
・日本10か月間の短期留学の様子については「我的苦学经历」という文章が残っているそうだ。
最初に入学したのは东亚预备学校で日本語を学んだが進みが遅くて嫌になり、ほかの初级英语学校に入りなおした。それは英語を学ぶためではなく先生がどう日本語で説明するのかを聞くのが目的だった。そこで日本語がわかるようになると再度ほかの英語学校に入りなおした。ところがやっぱり進みが遅くて嫌になりやめてしまい、本を買って自学した。ほかにはバイオリンを学んだ。さらに西洋绘画を教える私立の美术学校に入学した。興味が広がり浅草の劇場や上野の图书馆や神田の古書店や都内の博物馆をめぐるようになった。竹久夢二が自学で有名になった画家だと知りその作品を買い求めて研究した。
http://www.chinanews.com/hb/2013/08-09/5146161.shtml
・2012年「千家山郭静朝晖」という絵の落札価格は690万元(当時のレートで大体8500万円ぐらい)。

S潘天寿(1897—1971) 美术家、美术教育家。
浙江宁海县生まれ。子供のころから絵が好きで三国演义や水浒传の本の中の挿絵を書き写していた。
1915〜1920年浙江省立第一师范学校に学ぶ。卒業すると宁海下正学高小で教職に就く。
1923年春上海民国女子工校で教鞭をとり、夏になると上海美专の中国画系で国画习作课と理论课の教師を兼任する。
1924年上海美专の教授に就任。
1928年杭州国立艺术院の中国画主任教授に就任、书画研究会の指导教师を兼任。同時に上海美专、新华艺专等校でも教師を務める。
1944〜1947年国立艺术专科学校の校长を務める。
その後中国美术家协会副主席や浙江省文联副主席や中央美术学院华东分院副院长や浙江美术学院院长…を務める。
文革時代は“牛棚”に3年間監禁される。
1971年死去。
・この人を検索すると作品がたくさん出てくる。1960年代に描かれた代表作「鹰石山花图」は2015年オークションに出されておりその落札価格は2.43亿元だった。(大体48億円ぐらい)
・好んで描いたのは、鹰、荷、松、四君子、山水、人物。
中国の巨匠が描いた国宝級芸術品に物言う資格なんてあるわけないのは重々承知しているが、素人欧巴桑には鷹が鵜に見える…。

㉑徐悲鸿(徐悲鴻。1895—1953) 画家、美术教育家。
江苏省宜兴县生まれ。9歳の時私塾を開いていた父親から正式に絵を学び始める。13歳で父親と村を出て絵を売って生活。
1914年父親病死、故郷に帰り彭城中学で图画教员を務め、同時に始齐女子学校、宜兴女子学校でも图画を教える。
20歳の時上海に行きフランス天主教会の震旦大学に入学、フランス留学のためにとフランス語を学ぶ。この間有名な油絵画家らと交流。
1917年渡日、東京で美术を研究。「日本文展」という文章が残っており、市電で上野の帝室博物館に行っ
て誰だれの絵を見たなどと書いてある。
帰国後、蔡元培の招聘を受け北京大学の画法研究会で导师を務める。蔡元培、陈师曾、梅兰芳、鲁迅らと交流。
1919年北洋政府の援助を得て渡仏、パリ国立美术学校でデッサンと油絵を学ぶ。また西欧诸国を歴訪している。北洋政府の学費援助が途切れると物価の安いベルリンに移り勉強を続ける。ヨーロッパには8年間滞在した。
1927年秋帰国、国立第四中山大学(後の中央大学)艺术系教授に就任。
1928年田汉や欧阳予倩らの南国社に参加。上海成立南国艺术学院、南京中央大学、北平大学艺术学院で教鞭をとる。
1929年南京中央大学だけで教鞭をとるようになる。
1934年ヨーロッパを歴訪、展示会を開き、中国绘画艺术を広めた。
1930年油絵「田横五百士」を描く。(史记·田丹列传に載っている农民起义を起こした田横という人物がテーマ)
1931年「九方皋」を描く。(列子に載っている九方皋という人物)
1937年香港广州长沙などで絵画展を開く。中央大学の西遷に伴って南京から重慶に移る。
(当時中央大学の生徒数3000名、規模が一番大きな大学だった。8月15日図書館と実験中学が、19日大礼堂と付属歯科専門学校が日本軍空襲に遭い(のべ4回空襲に遭っている)、10〜11月重慶に西迁した)
http://zh.college.wikia.com/index.php?title=%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6&variant=zh-tw
1938年タゴールの招待を受けインド訪問を準備。重慶を離れる。「负伤之狮」を描く。
1939年印度国际大学で中国近代画展を開く。
1940年「愚公移山图」「群马」を描く。
1941年帰国。帰国途中各地で絵画展を開き売り上げた10万ドルすべてを抗战救灾に寄付。秋季第二次长沙会战期(同年9、10月ごろ)に「奔马图」を描く。
1942年重庆に戻り中央大学艺术系で教鞭をとる。
1946年再婚、北平艺术专科学校の校长に就任。北平美术工作者协会名誉会长を務める。
1949年中央美术学院の院长に就任。
1950年战斗英雄の絵を描く。「毛主席在人民中」のデッサンや構図を大量に描く。
1951年病気を抱えながらも山东导沭整沂水利工程の工事現場で実際に現場を体験。
1953年中央美术学院にて结业班の学生や教员向け油画素描进修小组にて授業をする。抗美援朝の志愿军のために「奔马」を描く。9月脳溢血で倒れ北京医院にて死去。
・北京の故居は残っていない。
1953年徐が亡くなると住んでいた家(东城区东受禄街16号)をその日のうちに奥さんが国に寄贈した。翌年その建物をもとにした徐悲鸿纪念馆が誕生、館名の文字は郭沫若が書いた。1966年北京地铁工事が始まり取り壊されるも1973年に周总理の指示により新館(場所は新街口北大街53号)を建設、1983年より正式開放。
・2012年に「九州无事乐耕耘」は2.668亿元(当時のレートで大体34億円ぐらい)で落札されている。
ドラマがある。面白そうなので後で必ず見るつもり。タイトルは「徐悲鸿」。
http://www.le.com/ptv/vplay/2133090.html?ch=baidu_ald

㉒齐白石(斉白石。1863—1957) 画家,篆刻家。
湖南长沙府湘潭生まれ。子供のころは字を習ったり木工や花鳥画や人物画や肖像画を習った。
1889年詩文を学んだり絵画を専門的に学ぶ。肖像画を描いて家計を助ける。
1902年西安にて絵を教える。
1903〜1909年いわゆる「五出五归」期間。1903年北京へ行き内廷供奉(宫廷中演出的戏曲艺人)として慈禧太后に仕えるよう推薦されるも断り上海経由で湖南に戻る。1904年江西に行く。1905年广西に行き蔡锷と黄兴と知り合う。1906〜1909年梧州、广州、钦州肇庆、端溪、上海苏州、南京などを訪れる。
1909年故郷に戻り寄萍堂を建て、8年間に及ぶ山暮らしを始め吟诗作画。
1917年土匪を逃れ北京に行くも張勲復辟事件に重なり天津に逃れる。政局が安定し北京に戻ると琉璃厂の南纸铺で画を売った。1919年結婚、北京に定住する。
1946年抗战が終わりまた琉璃厂で画を売るようになる。秋に南京と上海で画展を開き200作品すべて売るも持って帰った法币は紙くず同然だった。
1949年1月北平解放。毛泽东の石印を二つ彫る。中央美术学院名誉教授を務める。
1950年中央文史馆馆员になる。北京市の抗美援朝书画义卖展览会に参加。
1953年文化部より人民艺术家の称号を贈られる。北京中国画研究会主席や中国美术家协会第一任理事会主席に選ばれる。
1957年北京中国画院名誉院长になる。最後の作品「牡丹」が5〜6月頃描かれる。9月北京医院で死去。
1963年ユネスコ世界十大文化名人の一人に選ばれる(とよく言うが百度の説明には『この10名の中に齐の名はない』と書いてある。よくわからない)
・北京で暮らした場所は十数か所といわれる。宣武门外菜市口北半截胡同、法源寺、前门外西河沿排字胡同、陶然亭附近の龙泉寺、石镫庵、三道栅栏、高岔拉(后改称高华里)1号、跨车胡同15号(今は13号)、地安门东不压桥附近の雨儿胡同等など。一番長く住んでいたのは跨车胡同15号。
・現在、故居と呼ばれているのは2か所。
一つが雨儿胡同。もとは清代中晚期の内务府总管大臣の邸宅だった。新中国になり周恩来の手配で齐を住まわせた。後に齐白石纪念馆となったが文革中に取り消され今は北京画院《中国画》编辑部及び北京美术家协会の所在地になっている。
もう一つが西城区劈才胡同内跨车胡同13号(飛び地のような胡同になっている)。64歳の時に銀2000元で買ったといわれている。もともと日本人にも友好的で客人に揮ごうしたりしたが、1937年北京が占領されると面会を拒絶するようになった。
http://baike.baidu.com/link?url=3dzvQRMDFL73-gAeRgcPOwV3yFGy0sGzMkEhzOc_gP45jm8NQnGRSf5tXX9x-X1wgRZ0S4SgjGRRW6wF2zYKvq
・2011年に「松柏高立图·篆书四言联」が4.255亿元(当時のレートで大体53億円ぐらい)で落札されている。

㉓滑田友(1901—1986) 雕塑家。
江苏淮阴渔沟生まれ。
1924年江苏省立第六师范美术系を卒業、故郷で教職を務めた後、上海新华艺术专科学校で绘画を学ぶ。
1933年パリ高等美术学校に入学。
1943年より専門的に彫刻を研究、フランスで何度も受賞。
抗日战争期间は異郷に身を置くも祖国を思い日寇罪行を暴露する圆雕「轰炸」を制作、これがフランス教育部に購入され巴黎现代美术馆(パリ市立近代美術館のこと?)に収蔵されている。
1947年パリ晓米尔美术学院を卒業、徐悲鸿の誘いを受け帰国。
1948年北平艺术专科学校で教える。
新中国になると中央美术学院の教授に就任、雕塑系主任を務めた。全国城市雕塑艺术委员会委员や中国美术家协会理事を務めた。
1952年天安门广场人民英雄纪念碑レリーフ制作に加わり「五·四运动」の部分の彫刻を担当した。
・「轰炸」は侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆でも見ることができる。こちらは“雕塑”「轰炸」となっており写真で見る限り材質が石に見える。フランスのは銅製らしい。
http://news.qq.com/a/20071204/003988.htm

㉔刘开渠(劉開渠。1904—1993) 雕塑家。
徐州市萧县(現在は安徽萧县)生まれ。
1920年北京美术专科学校入学、さらに同校の大学部で油絵を学ぶ。
1924年专门部西洋画系に学び、云岗佛像の写真を見て、雕塑艺术に興味を持つ。
1927年国立西湖艺术院で教授に就任、图书馆主任を兼任。同年8月蔡元培の協力によりパリ巴黎高等美术学校雕塑系に合格。
1928年渡仏、パリ高等美术学校雕塑系に学ぶ。フランス留学中に中国留法艺术研究会を立ち上げる。
1933年帰国、杭州艺术专科学校の教授に就任、雕塑系主任を務める。
1934年抗日战争巨型雕塑「一·二八淞沪抗战阵亡将士纪念碑」を制作。
1937年抗日战争始まり、国立杭州艺术专科学校(当時は国内でも有名な芸術専門学府だった)の西遷にともない湖南沅陵や贵州や四川を経て、最終的に成都にたどり着く。
1939年成都で中华文艺抗战协会成都分会を組織する。1949国立杭州艺术专科学校校长、上海市美协主席、杭州中央美术学院华东分院院长に就任。1951年中央美术学院华东分院(現・浙江美术学院)院长に就任。
1953年北京にて人民英雄纪念碑制作を指導、人民英雄纪念碑设计处の处长と雕塑组の组长を務める。
1959年中央美术学院の副院长に就任。
1963〜1993年中国美术馆馆长に就任。中国美术家协会副主席を務める。
1993年北京にて死去。
・人民英雄纪念碑の設計と大型レリーフの制作を担当。レリーフは8テーマ10枚で構成されているが、一番大きい「解放全国」(支援前线—胜利渡江—欢迎人民解放军)の彫刻を行っている。

㉕傅抱石(1904—1965) 画家、美术史论家。
江西南昌生まれ。11歳で瓷器店に奉公、書道篆刻絵画を自学する。1921年試験免除で省立第一师范艺术科に入学。
1933年徐悲鸿の協力を得て渡日、东京帝国美术学院入学、美术史家の金原省吾に学ぶ。
1935年5月東京で「傅抱石中国画展览」を開き、学院院长の正木直彦や画家の横山大观らが展覧を見た。
1935年母親の病気で帰国。
1936年南昌で中国初の個展を開く。徐悲鸿の招聘で南京中央大学艺术系で教鞭をとる。
1937年抗战が始まると家族を連れて故郷の新余に戻る。
1938年郭沫若の招聘で武汉にて三厅工作に加わる。その後重庆に移る。
1944年杜甫をテーマに「丽人行」を描き徐悲鸿の賛辞を受ける。
抗战胜利すると、大学の移転につれて家族とともに南京に戻るも1947年南昌に移る。
1952年任南京师范学院美术系教授に就任。
1957年任江苏省中国画院院长
1965年死去。
・1959年人民大会堂落成に際し全国各地の著名画家が集められ作画することになった。周恩来の意向により、傅抱石は关山月と協力し毛泽东词「沁园春·雪」の内容に合わせた大作(縦5m横7m)の山水画を2か月かけて描き上げた。題名は「江山如此多娇」と名付けられる。左上に墨書された題字「江山如此多娇」は毛沢東の字を転写したもの。この画は迎宾大厅の壁に掛けられていたが傷みが出たため政府は1990年荣宝斋に依頼し専門家が臨模を行った。今飾られているのはその描き写されたもので、オリジナルは保管されている。
http://news.163.com/15/0309/14/AK96LOQ900014Q4P.html
・1996年「丽人行」が1078万元(当時のレートで大体1億4500万円ぐらい)で落札された。

㉖古元(1919—1996) 版画家。
广东香山县那洲乡(珠海市)生まれ。1932年广东省立第一中学(广雅中学)入学。美術が好きでよく水彩画でスケッチをしていた。
1938年故郷に戻り小学教员になる。その後广州の八路军办事处で入隊手続きをして延安へ。陕北公学で学び、美术小组に加わり革命宣传活动を行う。またこの時から木刻を学ぶ。
1939年延安鲁迅艺术文学院美术系第三期に入学。
1940年农历正月二十七,日军从唐家前环和香洲环登陆,珠海地区全部失陷。この年「运草」を制作。
1941年鲁艺で美术工场木刻组长と部队艺校美术教员を務める。
1942年延安整风运动や延安文艺座谈会や重庆で行われた全国木刻展に参加。徐悲鸿が賛辞。
1944年甲等文教模范に選ばれる。
1945年鲁艺が延安から东北に移動する際、华北解放区に残る。土地改革运动に参加。
1946年华北联合大学文艺学院美术系の教员を務める。
1951年新年画「毛主席和农民谈话」を制作。
1952年人民美术出版社创作室主任に就任。
1958年河北省遵化县の农村で労働、中央美术学院で教授に就任し版画系教研室主任を務める。
1979年中央美术学院副院长就任。
1983年中央美术学院院长就任。
1985年美协副主席に選出。
1996年死去、享年77歳。
・2915年に50〜90年代に描かれた水彩画150点が落札された。その価格は1702万元(大体3億4000万円ぐらい)だった。
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