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zoom RSS 北京 中国国家博物館の蝋人形 現代文化名人その3

<<   作成日時 : 2016/06/13 13:37   >>

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文学のエリア。
H鲁迅(魯迅。1881—1936) 文学家、思想家、评论家、革命家。
绍兴府会稽县生まれ。1893年祖父は投獄され父は病に倒れ貧しい田舎暮らしになる。
おじいちゃんの素敵な「补褂」姿。清朝官僚。
http://baike.baidu.com/link?url=QOpLcH3ec8dI8_AGjoHZNELHb5RyKmSLGjEjz7QfRsXT1jUddH32nuS03rK6vwTUTE_azPLXuuJGNO_WJysDVq
1898年南京水师学堂に入学、周樟寿から周树人に改名。1899年江南陆师学堂の矿务铁路学堂に転入。
1902年1月矿路学堂を卒業、3月に公費生として日本へ留学、4月弘文学院普通科江南班(日语学习速成班)に入学。1903年辮髪を切る。
1904年4月弘文学院修了、9月仙台医学专门学校(1912年改制东北大学医学部)入学。
1906年1月授業で日俄战争教育片を見て文学を志す。6月学籍を东京独逸语协会所属のドイツ語学校に置き、7月仙台から东京へ戻る。翻訳をしたり、ドイツ語やロシア語を学んだり。同年夏、騙されて帰国し朱安と結婚させられるも東京にとんぼ返り(たった4日滞在しただけだったという話もある)。そのとき周作人を連れている。
1908年章太炎(章炳麟)に師事、光复会の会員になる。
1909年8月帰国。浙江两级师范学堂(今の杭州高级中学)生理学化学の教員と、绍兴中学堂の教员兼监学と、绍兴师范学校(今の绍兴文理学院)の校長などを務める。また日本教員铃木珪寿の植物学の通訳も務めている。
1912年蔡元培の要請を受け中华民国政府の教育部で働く。袁世凯が大总统になり政府とともに北京へ移動、教育部社会教育司第1科科长と教育部佥事を務める。
钱玄同の影響を受け、新文化运动に加わる。北京女子高等师范学校教授と、北京大学兼职讲师を務める。
1918年5月中国现代文学史上第一篇用现代体式创作的白话短篇小说「狂人日记」を「新青年」第四卷第五号で発表。ペンネーム「魯迅」を初めて使う。
1920年北京大学と北京高等师范学校で中国小说史を教える。中国語訳「共产党宣言」を読み翻訳者を賛辞。
1921年「阿Q正传」を発表。
1923年8月小说集「呐喊」出版。周作人と別居。12月「娜拉走后怎样」を講演、女师大、世界语学校で教师を務める。
1924年11月「语丝」周刊を北京にて創刊。北京を来訪したタゴールと会う。
1925年「女师大风潮」を支持し教育总长章士钊に佥事の職を解かれる。この件で平政院に提訴し勝訴するも本人は復職しなかった。
鲁迅は中华民国政府の公务员として14年間従事した。许寿裳らとともに注音字母を制定したり、中华民国国徽のデザイン案を作ったりした。また北大校徽をデザインしたのも魯迅。
鲁迅设计的民国国徽:https://www.douban.com/note/122173887/
1926年「三一八惨案」が起こり、4月「记念刘和珍君」などの文章を発表し段祺瑞政府を批判して指名手配される。山本医院やドイツの病院、フランスの病院に延べ2か月以上潜伏。8月「彷徨」を出版、厦门大学の国文系教授に就任するも12月辞職。
1927年1月中山大学で教職に就く。4月1日黄埔军校で講演、12日に「四一二反革命政变」が起こり、学生を救えないことに憤慨し辞職。9月ノーベル文学賞候補者を拒絶、上海に戻る。
1930年2月中国自由运动大同盟が成立、发起人となる。3月中国左翼作家联盟成立大会に出席し常务委员に選ばれる。
1932年 一二八事变が起こり、翌日内山书店に避難。2月6日英租界にある内山支店に避難。艾青らと「春地美术研究所」と立ち上げる。
1936年何度も体調を崩すも「故事新编」を出版。10月17日鹿地亘と内山完造に会う。18日内山に手紙を書く。これが鲁迅の絶筆となった。10月19日死去。
北京の故居について。
・1912年5月〜1919年11月。住んでいたのは绍兴会馆。当時の建物の様子が「呐喊」自序にS会馆として記載あり。ここで「狂人日记」を執筆。
・1919年11月〜1923年8月。八道湾11号。「鲁迅日记」に周作人ら家族と引越しした、と記載がある。中は正院、后院、西跨院の三进になっていて、影壁もあった。鲁迅と母親と朱安は前院に住み、周作人の「苦雨斋」は后院にあった。当時鲁迅は中庭に丁香と青杨を植えた。蔡元培、郁达夫、钱玄同、胡适、沈伊默らが訪れている。ここで「阿Q正传」「风波」「故乡」「社戏」などを執筆。
・1923年8月〜1925年5月。 砖塔胡同61号。「鲁迅日记」8月2日に引っ越したことが書いてある。ここで「祝福」「在酒楼上」「幸福的家庭」「肥p」「中国小说史略」を執筆。
・1925年5月〜1926年8月。阜成门西三条21号。母親が同居を希望したのでこの場所を購入。ここで「野草」「华盖集」「华盖续集」「彷徨」「朝花夕拾」などを執筆。1926年8月に鲁迅が北京を出た後も母親と朱安はここに住み続けた。1949年10月19日より鲁迅故居として公開された。1954年故居の隣に鲁迅博物馆ができた。1994年新展厅を建設した。
http://wenku.baidu.com/link?url=T9Ef9ybeIYouqdKrvpn9r8jAKKuskNxx6mbJCMCptFg1DQmfLRSxRlwqRivxgRS57xzI7VNt7Oia_9OaGrMncB6D8VjKhB-iZaUOmneGRaC
北京鲁迅博物馆(北京新文化运动纪念馆)HP:
http://www.luxunmuseum.com.cn/a/gaikuang/
山本病院について。院長の山本忠孝氏は魯迅の主治医だった。山本氏は1911年东城八宝胡同に開業、1919年西单牌楼旧刑部街桥西路北门牌41号に移転(东安门外にある山本济生医院とは別)。診療室のほか病室が13部屋あった。この建物は日中戦争の時「大東学舎」と呼ばれ日本留学生の宿舎として使われた。
http://www.docin.com/p-1066802550.html
魯迅と周作人との関係がなぜ悪くなったのか。百度では3つの説を挙げている。すべて羽太信子が悪いように書いてあるけど。
http://baike.baidu.com/link?url=Dpe0NxXiPrXtIBFFwrIW1rKRQz2AkDqvMNlsMcnxHk7GVoOT5rpq0VotYGgby7gR2r8UhzywlVOFr_BOFT68Jrw-Sr99FOtv0ZSQt7Ot1J3

I郭沫若(1892—1978)诗人、剧作家、历史学家、古文字学家、考古学家、社会活动家。
日本市川時代に郭は上野図書館で罗振玉著(もちろん王国维の協力があった)の殷墟书契前编を見つけて甲骨文字や金文の研究を始めた。
北京の故居は前海西街18号。見学の際の見どころについて。
http://www.baike.com/wiki/%E9%83%AD%E6%B2%AB%E8%8B%A5%E6%95%85%E5%B1%85
百度の郭の説明:http://baike.baidu.com/link?url=iJzPIsu__7NDtfdw2kA7TxCtT8_IRWS3NnF_d5Kc0WUfpFmrbuhRvDtD6HzEyzqPNn2kxgAC6F4-7V_UDEmOpa
波乱万丈な人生について、また奥さんのをとみさんについても詳しく書いてある「シュトゥルム ウント ドランク : 疾風怒涛」という本がおすすめです。

J茅盾(沈雁冰。1896—1981) 作家、文艺评论家、社会活动家。
浙江省桐乡县乌镇生まれ。子供のころから優秀で特に作文が優れていた。1913年北京大学预科第一类に入学。预科を卒業し商务印书馆编译所に就職。
1921年1月文学研究会を立ち上げる。上海共产主义小组メンバーであったが、7月に中国共产党が成立し、正式な党員になる。
1923年商务印书馆国文部に移籍。
1925年广州国民党第二次全国代表大会代表として出席。
1927年1月武汉に行き中央军事政治学校武汉分校の教官を務める。8月南昌起义失败、党組織と連絡が取れなくなる。9月上海にてペンネーム茅盾として「幻灭」を発表。
1928年「动摇」「追求」を書く。これら「蚀」三部曲と呼ばれる。7月渡日。船上で秦コ君と出会う。最初の5か月は東京に、その後は京都で同棲した。日本で最初に書いた小説は「自殺」。有名な作品に「虹」(長編小説。未完)や「从牯岭到东京」がある。
1929年冬から大検挙が始まり、1930年4月に上海に戻る。中国左翼作家联盟に加入。
1937年2月偶然周恩来に会い党との繋がりを回復するも党員資格は不明瞭。第二次上海事変が起こったため长沙に移る。
1940年延安鲁迅艺术文学院や陕甘宁边区文化协会处で教える。10月重庆に戻り郭沫若の文化工作委员会常委に就く。
1945年6月创作活动二十五周年の祝賀会が行われ、茅盾文艺奖金で作品を募集する。
1949年北平に戻り、7月中国文学艺术界联合会副主席および中国文学工作者协会(中国作家协会)の主席になる。10月中央人民政府文化部长に就く。
1981年3月27日北京で死去。3月31日中共中央は生前から乞われていた中国共产党の党籍を回復、党歴を1921年からとした。
・渡日について。渡航と亡命と二種類の言い方があるらしい。当時35歳の茅盾と22歳の秦コ君が再開したのは神戸行きの船上だとか、渡航準備中の時だったとか言われている。秦は茅盾の子を二度堕胎しているとか、二人の噂を聞きつけた妻の孔コ沚が怒り狂ったとかいろんな話が出ている。また茅盾は帰国した際秦をつれて魯迅に会っている。ちなみに東京で最初に茅盾が泊まった場所は本郷館だそうだ。
http://history.eastday.com/h/node844627/u1a8275038_2.html
http://news.ifeng.com/history/zhongguojindaishi/detail_2012_03/04/12954421_1.shtml
・秦コ君という女性は茅盾以外にも複雑な恋愛結婚歴があるが、実は党員として実績も持っている人で「魅力的な革命女性」と言われている。
http://baike.baidu.com/link?url=ie_2VxF-CY-yFKQf3Y0JYAV_1Yp4otEpZOGXWd1UimDY4wWD89FYVlwh5McQcEGR-FzUqmF2oEUEYcieWsDxhq
・北京の故居は后圆恩寺胡同13号。死去するまで7年間住んだ場所。
http://baike.baidu.com/link?url=We4Hn3m3iR5w7QHDnYY5jL0E8xCOUIxsP6PjWsrwvTAizxwkToyAy8oEQER8qHGncv28hDMQPicdulSZKMJShpPA4AvFEoJMjL8cB_NsvwG

K巴金(1904—2005) 文学家、小说家。
四川成都生まれ。1920年成都外语专门学校入学、五四思想の影響を受け「均社」に加わる。1925年8月南京东南大学附中を卒業、北京大学受験の準備をするも病気になり上海で休養、9月上海民众社で「民众」を出版。
1927年1月フランスへ留学、「灭亡」を執筆。1928年帰国、上海で編集や創作を行う。
1934年数か月間北平に滞在。最初は沈从文の家に泊まり、のちに三座门大街14号に住んだ。このとき清華大学の研究生で、ちょうど春休みに日本を旅行してきたばかりの曹禺と知り合っている。
1934年7月上海に戻る。友人づてに横滨商业高等学校で中国語を教えている武田先生を紹介してもらう。
1934年11月黎コ瑞という偽名で渡日、目的は日本語の勉強。(巴金はもともと魯迅らが訳した日本文学を読んで日本語に興味があった)。最初の1か月は横浜本牧町の武田宅に、そのあとは東京の中华留日基督教青年会に入居。「神·鬼·人」と童話「长生塔」を執筆。(これに当時の様子が書いてある)
1935年8月帰国。もとは1年半滞在する計画だったが、溥儀来日に際し厳しくなった警察に捕まり神田警察署の留置所に入れられたことで(偽名はバレず14時間で釈放された)、日本語習得の意欲がなくなってしまった。
http://www.chinawriter.com.cn/2009/2009-10-24/78376.html
1937年抗日战争始まる。「救亡日报」の編集を手掛ける。
1938年中华全国文艺界抗敌协会に加入、理事を務める。
1940年からは中国各地で抗日文化宣传活动を行う。
1950年上海市文学艺术界联合会副主席と中国作家协会上海分会主席を務める。ソ連を訪問。
1966年8月中国作协上海分会が巴金を攻撃する大字报を発表、批判された巴金は“牛棚”送りとなる。
1967年5月人民日报が直接批判の文章を載せる。上海奉贤县にある「五七干校」で2年半労働させられる。
1950年7月海文联副主席に選ばれる。
1977年以後、中国作家协会主席や中国政协副主席や第十届全国政协副主席を務める。
1984年5月「世界七大文化名人」の一人に選ばれる。东京で開かれた第四十七届国际笔会大会(国際ペン東京大会)に招待される。
2003年11月国务院から「人民作家」の称号を贈られる。
2005年10月17日在上海にて死去。享年101歳。
・巴金はのべ6回日本を訪れている。日本の作家との交流について詳しい本がある。
http://baike.baidu.com/link?url=oAWSCCXrTdPfHFZGywCP4qZnvnQ3vm5rvc7WfFPq8SfcT9rZnHgU63_5AfYB1TQMiaoGGJQ5IFPBW8TxdnEvrpS4lr6_0cgkzUC5LfS4PKBActu87t_hFOMgD6A0KXMM7M5UI-XEa33Iu3kNAdnLTq

L老舍(1899—1966) 小说家、剧作家。
北京の小羊圈胡同生まれ。父親の舒永寿は京师正红旗に属する护军(首都の治安を守る兵隊)を務め、当時の給料は饷银で3两。1900年八国联军に攻め入られ永寿は地安门で交戦、流れ弾が火薬に当たって爆発、息も絶え絶えの永寿を老舎のいとこが地安门北长街の穀物商店で見つけるも現場は大混乱しており持ち帰れたのは永寿が履いていた片っ方の靴下だけだった。
http://news.ifeng.com/a/20141209/42678379_1.shtml
1913年京师第三中学(北京三中)に入学も経済的理由により数か月で退学。公費で通える北京师范学校を受験し入学。
1918年卒業、方家胡同小学で校長就任。2年後京师教育局の北郊劝学员という厚遇の職務に昇格するも教育界や地方旧勢力とうまくいかず、教職に戻る。
1921年舍予の名で「她的失败」を発表。
1922年キリスト教の洗礼を受ける。天津南开中学で国文を教えたり、北京教育会や北京地方服务团で働いた。また英文夜校や燕京大学で英語を学んだ。
1924年渡英、伦敦大学亚非学院で讲师を務める。在英中に「老张的哲学」「赵子曰」「二马」を発表、ペンネームで老舎と名乗る。
1929年イギリスを離れ、シンガポールで半年間中学教员を務める。
1930年帰国、齐鲁大学で教授に就任、教鞭をとりながら創作も続ける。
1934年山东大学文学系の教授に就任。
1936年山东大学教授を辞職。
1937年8月齐鲁大学で教鞭をとる。11月単身で武汉に行く
1938年中华全国文艺界抗敌协会常务理事兼总务部主任に選ばれる。同年7月重庆に行く。
1939年老舍が翻訳した英文版「金瓶梅」がロンドンで出版される。
1946年アメリカ国务院の招待を受け米国で教鞭をとる。
1949年中国文艺界の友人三十余名から手紙をもらい10月アメリカを離れる。12月天津入り。
1950年中国民间文学研究会ができ副理事长を務める。
1951年北京市人民政府から人民艺术家の称号を贈られる。
1966年文革中に迫害を受ける。太平湖で入水自殺。
1968年ノーベル文学賞に名が挙がり投票で1位だったがすでに亡くなった後だった。この年受賞したのは川端康成だった。
1978年人民艺术家の称号を取り戻す。
奥さんの胡巨ツは北京师范大学の卒業生。书法家。
息子の舒乙は中国现代文学馆の第三代館長を務めた。
中国現代文学館のHP:http://www.wxg.org.cn/
北京の故居。东城区灯市口西街丰富胡同19号。1950年帰国した当時北京饭店に宿泊していたが落ち着つかず周总理に会った際に家購入の許可をもらった。人を介して購入したのがこの四合小院。ここで「茶馆」など20余作品が執筆された。老舎はここに「火柿子」という品種の柿を植えた。老舎が死去したのちに水上勉は柿の木に触れた追悼文を書いている。
http://www.bjlsjng.com/
これは老舎の肉声。(1966年1月にNHKの取材を受けたときのもの。最初通訳の小声から始まる)低音でちょっとしわがれている渋いお声。北京の街や市民生活の変化について語っている。また日本に行く前はそうでもなかったが実際行ってみて親しみを感じるようになった言っている。
http://www.bilibili.com/video/av2839779/

M曹禺(1910—1996) 剧作家、戏剧教育家。
天津生まれ。父親は清朝公費留学生として东京士官学校に留学、阎锡山と同級生で、辛亥革命前(1916)には黎元洪の秘書を務めたという人物。
1922年南开中学の二年级に転入、子供のころから伝統劇に親しみ、在学中もいろいろな戏剧活动に参加、南开新剧团にも入っていた。。
1929年9月南开大学から清华大学西洋文学系二年级に編入。
1931年九•一八事变が起こり、清华の学生も抗日宣传を行い、曹禺は宣传队长を務めた。
1933年「雷雨」を創作。秋に清华研究院に進む。米国留学試験に不合格。
1934年巴金が「雷雨」を読み感動、文学季刊に載り留日学生の間で評判になる。
1935年3月著名电影演员阮玲玉が自殺、それに憤慨し「日出」を創作。
1935年帝国商科大学の学生邢振铎が「雷雨」を日本語に訳し、留日学生剧团中华话剧同好会が东京神田一桥讲堂にて初演。郭沫若はこの舞台を見ており、东京神田一桥教育馆から日本語版が出版されるにあたり郭はその序文を書いている。翻訳者は影山三郎。4月には天津市立师范学校孤松剧团も中国初演を果たし大反響を呼んだ。鲁迅も日本語版雷雨を読んでおり、米国記者スノーに「中国最好的戏剧家有郭沫若、田汉、洪深和一个新出的左翼戏剧家曹禺」と言っている。
http://wenku.baidu.com/link?url=nS8cMpb3WAHPvPWf0GkQyBxgVnsst85J3Yxbhim1GCt6gDEUEwWs5Ubu_lQ5WT3MJJIsZNrSYMfl18E5du9fA2jBstxB2Ww0ILAyR-8sv37
1936年6月鲁迅、巴金ら77人が「中国文艺工作者宣言」に署名。「原野」創作。
1937年5月「日出」が大公报の文艺奖を受賞。
1940年「北京人」創作。
1946年にアメリカ国务院の招待を受け老舍とともに米国に渡り講義をする。ロミオとジュリエットを翻訳。
1947年2月上海に戻る。中共地下党に従い秘密裏に香港へ行く。
1949年中共地下党に従い商人に仮装し船で烟台解放区に入る。中华全国文学艺术工作者联合会が成立、常务委员に選出される。また中华全国文学工作者协会、中华全国戏剧工作者协会、全国电影工作者协会も成立しいろいろな役職を務める。
1951年北京人民艺术剧院ができ、院长を務める。
1956年共産党入党。
1964年人民日报に「文化大革命万岁」を発表。
1973年思想解放军宣传队が北京人民艺术剧院にやってきて认罪检查报告を書かされた。また畑で労働したり首都剧场で雑務をやらされ、文革の間は執筆ができなかった。
http://news.qq.com/a/20100531/001390_1.htm
1996年北京医院で死去。
曹禺は日本を3度訪れている。最初は1933年清華大学訪日団の一員として。1982年は中国剧协と日本日中文化交流协会との交流活動の一環で戏剧家代表团団長として。あと一回はいつのことか不明。

N沈从文(1902—1988),小说家、散文家、历史文物研究家。
湖南凤凰县生まれ。1917年湘西靖国联军第二军游击第一支队に加わる。1918年小学校を卒業し現地の部隊に加わる。1922年軍隊を離れ北京大学で聴講する(当時の北大は蔡元培の意向で誰でも自由に聴講できた)。
1923年燕京大学国文班に不合格、北京大学で聴講する。
1924年郁达夫の協力を得て「晨报副刊」に散文「遥夜」を投稿。これを読んだ北大教授が香山慈幼院图书馆の事務員(月給20元)を紹介。
1928年上海に行き出版社を立ち上げ雑誌を創刊。
1930年武汉大学で教鞭をとる。この時期「论郭沫若」を発表し郭が行う創作は失敗だと書いている。その後国立青岛大学(国立山东大学前身)に移り教鞭をとった。
1933年北京に戻り結婚、「大公报·文艺副刊」を編集した。
1938年中小学国文教科书を編纂、11月西南联大中文系の教授になる。
1948年3月郭沫若が「斥反动文艺」を発表、沈从文を桃红色的反动作家であるとした。これより左翼文化界の強い批判を浴びることになり、沈は文物研究に力を入れるようになる。
新中国になり、中国历史博物馆や中国社会科学院历史研究所で働く。主に中国古代服饰の研究を行った。
1950年政治圧力に耐えられず自殺を図る。
1969年湖北咸宁五七干校で労働。
1978年中国社会科学院历史研究所研究员になる。
1981年、15年間の研究の成果「中国古代服饰研究」を出版。
1983年脑血栓で入院。1984年でまた入院、体が不自由に。
1988年心臓病で死去。
1987年と1988年にノーベル文学賞候補に挙がっている。
北京の故居。
・1922年北大聴講時に泊まったのは前门外杨梅竹斜街61号にある酉西会馆。後に従弟の協力で银闸胡同にある公寓に引っ越す。
・1924年香山に暮らす。
・1933年西城达子营の小院に住む。
・新中国になると东堂子胡同51号(总理各国事务衙门西側)に住んだ。部屋は3間あったが文革時代に2間とられた。簡素な部屋だった。今は残っていない。
・死去する2、3年前に待遇が改善され、自動車と運転手付きのマンションに暮らした。住所は崇文门东大街22号楼。
http://www.chinawriter.com.cn/bk/2011-05-16/53314.html
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2009-08/20/content_11916509.htm
北京とは関係ないが、沈の生まれたところに凤凰古城という国家4A级景区があるので、観光に行く前に作品を読んでおくといいらしい。

O钱钟书(銭鐘書。1910—1998) 作家、文学研究家。
江苏无锡县生まれ。1929年清华大学外文系に入学。
1933年清华大学卒業、上海光华大学で教鞭をとる。
1935年英国庚子赔款公费留学生の資格を第一位の成績で取り、オックスフォード大学艾克赛特学院英文系に留学。同年杨绛と結婚。(楊絳は作家・翻訳家。「干校六记」に文革時代の知識分子の干校生活が書いてあるらしい)
1937年オックスフォード大の学士を取得、パリ大学で研究を続ける。
1938年秋帰国。清华大学の教授に招聘される。
1939年国立蓝田师范学院任英文系主任を務める。
1941年珍珠港攻撃で状況が変わり上海に留まる。震旦女子文理学校で教鞭をとる。「围城」を執筆。
1945年抗日战争が終わると上海暨南大学外文系教授兼南京中央图书馆英文馆で編集を務める。
1947年長編小説「围城」を上海晨光出版公司から出版。
1949年清华に戻り外文系教授に就任するとともに外文研究所に従事。
1953年に清华大学は工科大学となり、文科は北京大学に合併された。钱钟书は教職を離れ文学研究所の仕事をした。
1966年文革が始まると资产阶级学术权威とみなされ攻撃を受けたり、大字报で貶められた。
1969年先遣队として河南省罗山县にある五七干校に行かされた。後に五七干校は河南息县东岳に移転した。
1972年北京に戻る。
1975年死亡の誤報あり、外国で追悼式が行われた。
1976年钱が手掛けた英訳「毛泽东诗词」が出版された。
1979年中国社会科学院代表团に参加し渡米。哥伦比亚大学や加利福尼亚大学贝克莱分校等を訪問。
1980年11月日本を訪問、早稻田大学で講演を行う。題は「诗可以怨」。
1983年中国社会科学院副院长として中美比较文学双边讨论会に出席。
1990年12月「围城」が中央电视台で連続ドラマになり大大大人気。
1998年北京で死去、享年88歳。
「诗可以怨」の内容:
http://baike.baidu.com/link?url=zfa1nn4PxphGzIDR5cGdsbSFH5Ig7aqQimUvQRiYKG8wTjirO4mAVvzNd5iB3hRu0OTqF-0H2baGpD-YoebaP_
北京の故居。
・清华大学新林院7号。
http://www.chinaxq.com/html/201012/n612236397.shtml
・晩年は三里河にある国务院宿舍区。
http://jiangsu.china.com.cn/html/jsnews/gnxw/5706479_1.html

P朱自清(1898—1948) 散文家、诗人、学者。
江苏东海县生まれ。1916年江苏省立第八中学を卒業、北京大学预科に入学。1917年本科哲学系に入る。この間五四爱国运动に参加、平民教育讲演团で活動。1919年より詩を発表し始める。
1920年北大哲学系を卒業し、杭州第一师范や母校江苏省立第八中学で、国文と哲学を教える。新文学运动を継続。
1921年文学研究会に加わり、五四期における重要作家の一人となる。
1928年散文集「背影」出版。
1931年8月英国留学、语言学と英国文学を学ぶ。また欧洲五国を漫遊。
1932年7月帰国、清华大学中国文学系主任になる。
抗日战争がはじまると、清华大学の南迁に伴い长沙へ行く。
1938年3月昆明にて、北京大学・清华大学・南开大学の合併でできた西南联合大学の中国文学系主任になる。また中华全国文艺界抗敌协会理事に選ばれる。
1945年抗日战争が終わり、国民党政府との内战が始まり民主运动が抑圧される。
1946年四川から北平へ戻る。
1948年「抗议美国扶日政策并拒绝领取美援面粉宣言」に署名。北平医院で死去。享年50歳。
かささぎは昔北京で「朱自清は『米国=国民党』の小麦粉を拒絶して飢え死にしました」って先生から習ったのだけど、飢死ではなく胃病が悪化したのが原因。小麦粉は買わなかったがでんぷん粉とか牛乳で栄養摂取していたそうだ。なぜ拒絶したのかキーワードは「反美扶日」。
反对美帝扶日运动:
http://baike.baidu.com/link?url=eeOUej299iCffSQgCGE6VodKiQfhhKMvkep88-xzr0f4Y1umhYY6NYr4KuiOJNqT
北京の故居。清华园西院45号、北院9号、16号。
http://www.tsinghua.edu.cn/publish/thunews/9668/2011/20110225231947921185868/20110225231947921185868_.html
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