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zoom RSS 北京 中国国家博物館の蝋人形 現代文化名人その2

<<   作成日時 : 2016/06/07 17:17   >>

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中国国家博物館の推しメン35人ってどんな人なのか勉強するのってなかなか大変。でもこれを勉強したら中国の中学生レベルに追い付けるかも?頑張る。

続き。その次は中国の学者のコーナーになっているらしい。
D梁启超(梁啓超。1873—1929) 思想家、著名学者,戊戌维新运动领袖之一。
生まれは广东新会茶坑村。10歳で童子试を受け不合格も、2年後に秀才となる。
1895年春、梁启超は会试を受けるため康有为とともに北京を訪れていたとき、下関条約締結を知り、举人1000余名の連名からなる上书を上奏。これが有名な「公车上书」。梁启超は康の重要な助手であり、维新运动のリーダーとなった。
1896年黄遵宪らが上海で「时务报」を創刊、主筆に招かれる。
1897年11月、ドイツが胶州湾を占拠。
1898年上海にて「时务报」主筆を辞し、3月に北京入りし、康とともに民族危機を訴える。7月3日光绪帝より六品を賜り、京师大学堂译书局事务を任される。同年戊戌变法に失敗、渡日。日本で孙中山ら革命派と密に往来し会を立ちあげようとするも康の激しい反対に遭い諦める。宣伝活動を重視し、12月横浜で「清议报」を創刊。
1902年2月横浜で「新民丛报」を創刊。
1907年9月蒋智由らと東京に政闻社をつくる。
1911年11月袁世凯が责任内阁を組み、梁を法部次官に指名。
1912年2月清帝退位、3月に袁が临时大总统に就任。
1912年10月、14年間の流亡生活に別れを告げ帰国、熱烈な歓迎を受ける。
1913年7月进步党の熊希龄が内阁总理となり、梁は司法总长に就任。
1914年袁が大总统になり国会がなくなる。中華民国約法制定。梁は币制局总裁を辞職し天津へ転居。
1915年上海へ転居。梁の学生だった蔡锷が护国军を結成。
1916年护国军が四川で膠着、蔡锷を助けるため广西将军陆荣廷に会いに行くとき、日本驻沪武官青木中将の協力を得る。日本の客船に乗って広西入りを果たし护国运动に参加。5月軍務院が発足、抚军兼政务委员长に就任。6月袁世凱病死、段祺瑞が国务总理になると梁はこれを支持。7月军务院解散。
1917年段が北洋政府を掌握、梁は财政总长兼盐务总署督办に就任、宪法研究会のリーダーになる。9月孙中山が护法战争を起こし、11月段祺瑞内閣が倒れ梁も辞職。政界を辞し文化教育と学術研究に努める。
1918年に欧州訪問。
1922年清华学校の讲师を務める。
1925年清华国学研究院研究教授を務める。
1927年王国维が颐和园昆明湖で入水自殺、天津から北京に戻り葬儀を執り行う。
1929年1月19日北京协和医院にて死去。享年56歳。
日本での活動について、研究は日本のほうが詳しいらしい。
http://www.cssn.cn/zgs/zgs_zgjds/201310/t20131025_546638.shtml
・梁启超墓について。
場所は北京植物园东环路东北の银杏松柏区。植物園に着いたら案内に沿ってとにかく奥へ奥へと歩いていくとたどり着ける。この墓园の設計は梁思成。
・北京の故居について。
「梁启超故居」として1986年6月东城区文物保护单位に認定されたのは北沟沿胡同23号の建物だった。それに対し2012年3月に直系子孫が东城区文物管理所を訪れ、东直门内南小街北沟沿胡同23号は梁启超の故居ではないと指摘。东城区文委はそれを認め、ここは“名人故居”に該当しないとし、入り口に掲げられていた紹介プレートを外した。
http://news.sina.com.cn/c/2013-08-16/021927961478.shtml
では本当の故居はどこにあるのだろう。百度の説明はまだそのままになっている。ということは今のところ分かっていないってことなのでしょう。北京にいた当時わざわざ見に行ったので残念だけどそれも仕方ない。心安理得,海阔天空。
・1925年清华大で教えることになったときに住んだ場所は清华园北院。
http://www.tsinghua.edu.cn/publish/thunews/9668/2011/20110225232141921501883/20110225232141921501883_.html
・日本亡命時代の住所や活動内容について。
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_tamura_chen.pdf#search=%27%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85+%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E5%B1%85%E4%BD%8F%E5%9C%B0%27

E王国维(王国維。1877—1927) 史学家、语言文字学家、文学家、著名学者。
浙江省海宁生まれ。1892年15歳で海宁州岁试を受け秀才。
1900年春に出洋考试を受け日本留学の準備を進める。罗振玉から資金援助を受け、また藤田八丰・四岗佐代治助という2人の日本教師の協力を得て、1900年12月に东京物理学校に入学。
1901年4月病気のため帰国。
1911年辛亥革命後、家族を連れて罗振玉とともに渡日、京都大学のすぐそば(田中村)で4年余り過ごす。甲骨文字の研究を始めたのはこのときから。日本の学者と広く付き合った。
1916年帰国。
1921年马衡から北大文科教授になるよう乞われるも断る。
1922年年北京大学研究所国学门通讯导师を無償で務める。
1923年春推薦を受け、北京で溥仪の「南书房行走」(秘書のようなものらしい)を務める。
1924年冬、冯玉祥の北京政变により、溥仪が紫禁城を出ることになり、「南书房行走」を辞職。胡适らの推薦で、新しくできた清华大学の国学研究院院长になるよう薦められ、教職には着いたものの院长の職は断った。
1925年9月国学研究院普通演讲が正式に始まる。王は「古史新证」を教え、10月からは「尚书」も教えた。梁启超・陈寅恪・赵元任・李济(一説では吴宓)とともに清华五大导师と称される。
1927年6月颐和园の昆明湖で自殺、清华园东二里许西柳村に埋葬(後に福田公墓に改葬)。今も清华大礼堂西侧に記念碑が残っている。
北京の故居は2カ所。
・「南书房行走」をやっていたときに住んでいた织染局胡同29号は玉河工事で取り壊された。
・清华国学研究院時代に住んでいたのは清华园西院42号(書斎)と43号(寝室)。当時の面影は残っていない。

F陈寅恪(陳寅恪。1890—1969) 历史学家、古典文学家、语言学家。
生まれは湖南长沙。家塾で学んでいたとき日本留学経験者から日本語を習っていたという。
1902年兄の陈衡恪とともに渡日。巢鸭弘文学院に入学。当時弘文学院の寄宿生は全部で22名、兄の寅恪は魯迅と同級生、寅恪は魯迅より9歳年下。
1905年に足を悪くし帰国。复旦公学で学ぶ。
1910〜1914年欧州の大学へ自費留学。
1918年江西官费の援助を得て哈佛大学に留学。
1921年、ドイツ柏林大学に留学。
1925年帰国。清华学校が大学に改制、研究院国学门ができ胡适の意見で导师制が始まる。招聘された学者には王国维、梁启超、陈寅恪、赵元任らがいた。研究院主任の吴宓は陈を高く評価し「最为学博识精」と言った。梁启超は校長の曹云祥に陈を紹介するとき「陈先生的学问胜过我」と言った。
1926年、36歳で研究院の导师となり、梁启超や王国维とともに清华三巨头と呼ばれた。
1937年抗日战争が起こり、陈寅恪の父(陈三立)が抗議の絶食をして死去。陈寅恪は大学とともに南迁する。
1938年秋、南迁した先は昆明。西南联大。
1939年英国牛津大学から汉学教授として招聘される。渡英しようとするも第二次世界大戦のため香港に留まり香港大学客座教授兼中文系主任となる。
1941年太平洋战争が始まり日本が香港を占領すると陈は大学を辞める。日本側から东方文学院を立ち上げるよう求められるも拒否。
1942年日本軍に占領されている上海で教鞭をとるよう日本側から求められるも拒否。香港を離れ广西大学、中山大学で教授を務め、のちに燕京大学で教鞭をとる。
1945年終戦後、再び牛津大学の招聘を受けて渡英、もとから悪かった両方の目の手術を希望するもよくならず失望する。
1949年帰国。清华园に戻り学术研究に従事。(このあたり記述に違いがあるみたい)
中央研究院历史语言研究所所长から台湾・香港の招聘を受けるも断る。广州岭南大学(合併して中山大学)で教鞭をとる。
中华人民共和国が成立し、中国科学院社会科学部委员、中国文史馆副馆长、第三届全国政协常务委员などの職に選ばれる。中国科学院院长の郭沫若から乞われた科学院哲学社会科学历史研究所第二所长を断る。中山大学の教授を続ける。
文化大革命が始まると迫害され大量の書籍や原稿を奪われた。
1969年广州で死去。
北京の故居について。
1926年より清华国学研究院に所属し、清华园新西院三十六号に住む。1929年広州から北平北海静心斋に移ってきた中央研究院史语所で历史组研究员主任も務めるようになり、通いやすいよう城内に家を借りた。それが西四牌楼姚家胡同3号四合院。南京から父を呼び寄せ、当時では珍しい電話も付けた。
昔かささぎが散歩で行ったときは取り壊し予定だと聞いたが、今でも残っている。一般人の住居として使われており整備はされていない。
http://www.chinaqw.com/zgqj/qkjc_hnyhw/200910/27/178199.shtml

G 赵元任(趙元任。1892—1982) 语言学家、作曲家,中国语言科学的创始人。
天津生まれ。1910年7月清廷游美学务处が北京で募集したとき2位の成績で合格、8月に渡米し康奈尔大学(コーネル大学)に留学、数学を専攻、1914年理学士学位を得る。1915年哈佛大学で哲学を専攻、1918年哈佛大学哲学博士学位を得る。1919年康乃尔大学で物理を教える。
1920年清华大学で物理・数学・心理学课程を教える。
1921年杨步伟と結婚し渡米。哈佛大学で哲学と中国語の讲师を務めるとともに语言学を研究する。
1925年帰国し清华大学で数学・物理学・中国音韵学・普通语言学・中国现代方言・中国乐谱乐调・西洋音乐欣赏などの课程を教える。梁启超、王国维、陈寅恪とともに清华四大导师と称された。
1938〜1939年夏威夷大学で教える。中国音乐课程を開講。
1938〜1941年耶鲁大学で教える。
5年後また哈佛大学で教えるとともに、哈佛燕京字典の編集に加わる。アメリカ国籍を取る。
1948年中国中央研究院第一届院士に選ばれる。アメリカの艺术与科学院(AAAS)院士に選ばれる。
1959年台湾大学で教える。
1981年中国社会科学院语言研究所の招待を受け帰国、全国政协主席邓小平と会見、北京大学名誉教授の称号を受ける。
1982年米国で死去、享年90歳。
奥さんの杨步伟は公費生として東京女子医学専門学校に留学していた人。21か条要求により留学生が学校と対立した時代だった。(中国のサイトでは最終学歴が东京帝国大学医科博士になっている…)。帰国後北京の绒线胡同で森仁医院を開業。結婚の様子は地元新聞「晨报」に「新人物的新式结婚」と大見出しで記事になった。
赵が考えた早口言葉:「石室诗士施氏,嗜狮,誓食十狮。氏时时适市视狮。十时,适十狮适市。是时,适施氏适市。氏视是十狮,恃矢势,使是十狮逝世。氏拾是十狮尸,适石室。石室湿,氏使侍拭石室。石室拭,氏始试食十狮尸。食时,始识十狮尸,实十石狮尸。试释是事。」
北京の故居について。
1925〜1929年、清华国学研究院で导师をしていた時期は清华园照澜院1号に住んでいた。お隣の2号に陈寅恪が住んでいたという話もある。
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