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zoom RSS 北京 中国国家博物館の蝋人形 現代文化名人その1

<<   作成日時 : 2016/06/06 16:24   >>

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中国国家博物馆で「中国现代文化名人蜡像艺术展」(常設展)が始まった。国博の蜡像馆はよくある蝋人形館(娯楽的で商業的な展示)とは異なる趣向になっている。深い歴史と文化を表現することを目的に造られた。
20世紀初頭の中国では、多様な文化流派、文化思想、文化芸術にあふれ、文化運動が活発だった。各々の領域において多くの文化人が出現したその時代の輝かしい瞬間を展示したものである。
その時代を代表する人々として、選ばれたのは35名の文化人。蝋人形だけでなく、音声、照明、立体映像などを駆使し、空間に変化を与えることで楽しく鑑賞できるようにした。
http://epaper.bjnews.com.cn/html/2016-05/25/content_636645.htm?div=-1

現代文化名人に選ばれし35名の方々。中国では超超有名な人なのだろうから、国博のHPを見てみた。知ってる人もいれば全然知らない人もいる。かささぎが気になって仕方ない郭沫若もいる。大好きな老舎もいる。
http://www.chnmuseum.cn/tabid/236/Default.aspx?ExhibitionLanguageID=571

入場してまず見えるのが、北大紅楼の前に立つ、新文化运动の功績があるこの方々らしい。
@蔡元培(1868(明治元年)〜1940) 民主革命家、教育家。
浙江绍兴生まれ。17歳で秀才、25歳で进士(殿试での成績は37位)、27歳で翰林院编修に就く(この年日清戦争)。1898年官職を離れ教育を提唱。
1902年上海で中国教育会を立ち上げる。爱国学社や爱国女学を設立する。
1903年日本訪問。
1903年同盟会に参加、上海分会の会长になる。
1904年上海に光复会を設立。
1907年ドイツ留学。
1911年武昌起义後に帰国。
1912年中华民国临时政府が南京に成立すると、蔡元培は初代の教育总长(大臣に相当)に就任。北京の留法俭学会を支持。
1913年袁世凯の専制に不満、欧州へ留学。
1915年フランスにて#21326;法教育会を組織し留法勤工俭学会を提唱。
1916年帰国。1917年49歳で北京大学校长に就任。
1919年五四运动学生逮捕に抗議し辞職しようとするも、教師学生から懇願され留まる。翌年国立大初の女子大生が北大で誕生。
1920年中法大学を設立、校長に就任。
1923年北洋政府教育总长へ不満を抱き北大を離れる。
1924年11月〜1926年2月、ハンブルク大学に留学。
1926年帰国。国民革命军の北伐に参加。
1927年国民党中央政治会议委员、中央特别委员会常务委员、国民政府常务委员、监察院长、代理司法部长などに就任。大学院を全国最高学术教育行政机关とするよう提唱し、大学院院长に就任。上海に国立音乐院を設立。
1928年行政から退き、国立中央研究院院长となる。また交通大学、中法大学、国立西湖艺术院など多くの学校で校长や院长に就任した。故宫博物院理事长や北平图书馆馆长なども務めた。杭州に国立艺术院を設立。
1931年九一八事变の後は抗日を主張、1932年宋庆龄や鲁迅らと中国民权保障同盟を設立、副主席を務める。晚年は抗日救亡に奔走、国共合作に尽くした。
1940年香港で病没。
北京の故居について。蔡は北京のあちこちに家を借りて住んでいた。东堂子胡同に住んだのは1916〜23年、北京大学・紅楼で働いていた時期。借りたのは四合院西北側の二間。
http://33665307.at.webry.info/200906/article_21.html
北京蔡元培故居:http://baike.baidu.com/link?url=35chTKndLHgk8Pnmb1Rq_yxk08BZ0264rMzODmyDchnPthrIu3fbcWgNG2rLcUyLFfOKc3j-DcJF1UuQWQmzU_
北大未名湖のほとりに胸像がある。
北大イコール蔡元培のイメージが強すぎるが、実は14代目の校長。前に13人もいたんだ…。章士钊もその一人。

A陈独秀(陳独秀。1879〜1942) 新文化运动的发起人,“五四运动的总司令”,中国共产党的主要创始人和早期领导人之一。
安徽怀宁生まれ。1896年17歳で秀才、1897年杭州求是书院(今の浙江大学)で学び、西洋思想文化に親しむが、1899年清朝批判して退学、と百度にある。
その後日本に留学。(日本のネットで詳しいことが分からなったので雑誌「环球」を見てみる。「环球」記者は「陈独秀传」を書いた唐宝林を取材している)
・陈は5度日本に渡っているが、詳しい資料がない。日中の学者が数十年かけて調査したものの、何を学んでどんな成績だったのかはっきりわかっていない。
・延べ5回の渡日が行われたのは1901年〜1914年の間。滞在期間は短かった。
・清政府から派遣された留学生たちとは異なり、陈独秀は自費で日本に留学した。陈の本当の目的は外国の原著や日本語に訳された西洋社会科学の書籍を得て自学することだった。
・一回目は1901年10月、东京高等师范学校で日本語を学び、东京专门学校(早稻田大学前身)に入学。留学して間もなく中国留学生の「励志会」に入会、のちに脱会。
・二回目。反帝爱国の活動をしたことで清政府から指名手配を受けたため、1902年9月日本に渡り、当時の中国留学生に人気だった軍事学校である、成城学校陆军科に入学した。このとき多くの仲間と知り合い、民族主义と破坏主义を目的とする「青年会」を作った。
・四回目は1907年春、东京正则英语学校で英語を専攻し、早稻田大学で西欧文化を学ぶ。この留学は2年半と長く、章太炎らと研鑽しあった。
・五回目。袁世凱第二革命で捕まる。釈放され日本へ。1914年7月东京雅典娜法语学院に入学、フランス語を学ぶ。
http://news.ifeng.com/history/zhongguojindaishi/detail_2013_09/20/29761248_0.shtml
また、百度知道には3回目の説明がある。
・三回目は1906年の夏で、苏曼殊と一緒に夏休み旅行をした。夏休みが終わると帰国し皖江中学で教師をした。
http://zhidao.baidu.com/link?url=tDZaYVQUuHz2t5_GbqIf8m0JqAXNQ_e9lAB7_PiCdeP7Ib2Ns1Zy6We9ZHjWs2hJHI_3hfF7fa1WgfAF5ZCZzndiszkNCULcEeHXgSDPKO3
・1908年当時、神田猿乐町二丁目一番地の清寿馆に住んだという記録もあるらしい。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_519167a60101ftkd.html
1915年帰国。9月15日上海で雑誌「新青年」を創刊。
1916年11月北京到着。西河沿中西旅馆64号房间。北大文科学长になるよう蔡元培に誘われる。
1917年1月北京大学学长(系主任に相当)に就任。自宅は池子箭杆胡同9号、雑誌「新青年」編集部を兼ねた。
1919年五四運動の年の6月、北京前门外新世界游艺园で「北京市民宣言」のビラを撒き密偵に逮捕される。その晩京师警察厅が自宅兼編集部を捜査、ビラや雑誌や書簡を押収。逮捕が知れると孙中山や章士钊らが釈放要求を表明。その後9月に釈放された。
1920年1月秘密裏に北京を離れ上海へ。
1921年7月、上海で中国共产党第一次全国代表大会が開かれ、中央局书记に選ばれる。
国共合作、トロツキズム云々。
1932年国民党の弾圧を受け逮捕。
1937年日中戦争勃発後の8月釈放、武漢や重慶に住み、最後は四川江津にて1942年5月貧しさのなか病死。
北京の故居、池子箭杆胡同について。
http://33665307.at.webry.info/201509/article_7.html
北京新文化运动纪念馆(北大红楼):http://baike.baidu.com/link?url=Rki3yn0El1po0k1UqWND4BB_o3VylbccmOjQFXMSvkDLdPp3SFa_VUgrlVQDQ3Mcxg-u_dE6pSSNSm8N_S25Qq
陈独秀イコール五四運動のイメージがあるが、実際に学生の先頭に立ってデモ行進をした人ではなかったってことに気が付いた。
詳しい内容はこちら:http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/html/10129/272/AN00410043_1_201.pdf

B李大钊(李大サ。1889—1927) 早期马克思主义者,中国共产党的主要创始人和早期领导人之一。
河北乐亭生まれ。両親を早くに亡くし祖父に育てられた。1907年に天津北洋法政专门学校に入学。
1913年に卒業、渡日、东京早稻田大学政治学科に入学。(日本のネットで詳しいことが分からなったので新华网を見てみる)
・早稲田大学の資料センターに「省别学生索引簿」と「早稻田大学清国留学生部」という資料が残っている。1905年より年数百人の単位で中国留学生を受け入れるようになり、清国留学生部がつくられた。清国留学生部での在籍は2年間が一般的だった。それを終えて選抜試験を経て本科へ入ると日本学生と一緒に学ぶことができた。
・「大正四年度学费领收簿・大学部政治经济科」という資料に李大钊の記録が残っている。それによると李が政治学を学び始めたのは1914年9月で課程は2年間になっている。細かい記録が載っており、例えば9月9日には学費5円納入、10月26日は4.5円納入…といった具合。
・大学教授の話によると、李は日本語だけでなく英語や経済学や法律なども学んでいた。大学で社会主义经济学理论に触れ、特に熱心だったのが安部矶雄教授の经济学の講義だった。
・1915年1月、二十一か条要求に対し中国留学生が反発、李は抗議行動に参加し「警告全国父老书」を発表、電報を使って全国に広げた。革命活动に加わり学業を捨て、1916年に帰国。
・大学教务部教务课には李の生年月日、出身地、学歴、学科、東京での住所が書いてある学籍証が残っている。それによると李は1915年7月5日に第一学年を終了していることが分かるが、第二学年の欄は空白のままになっている。
http://news.xinhuanet.com/politics/2011-06/12/c_121523770.htm
1916年帰国、北大の图书馆主任と经济学教授を兼任、また新文化运动の中心人物として活動。
1920年初頭、陈独秀と会い、北京と上海に分かれ中国共产党の立ち上げ準備を進める。同年3月北京大学に中国初の马克思学说研究会をつくる。北京で何度も共产国际代表と会見を行う。同年秋,共产党早期组织及び北京社会主义青年团を立ち上げ、組織を発展させるよう積極的に宣伝した。これが有名な“南陈北李,相约建党”。
1921年7月、中国共产党第一次全国代表大会が開かれ、中国共产党が成立。李と陈は中国共产党主要创始人となった。
1924年1月、大会主席团の一人として国共合作の国民党第一次全国代表大会に参加、国民党中央执委会委员に選ばれる。
1925年5月30日上海で五卅运动が起こり、赵世炎らと北京で5万人のデモを行い上海を支持した。
1926年3月帝国主义及び北洋军阀に反対する三一八运动に積極的に関与し自ら参加した。
1927年4月6日、奉系军阀张作霖が李ら80余名を北京で逮捕。
1927年4月28日、北洋军阀政府は李ら革命者20名を西交民巷京师看守所にて絞殺。
1933年、白区(国民党統治区)の共産党秘密组织が万安公墓に埋葬。
新中国になると、河北乐亭や北京に李大钊纪念馆が作られた。
1983年10月、李大钊烈士陵园が北京万安公墓につくられた。
北京李大钊故居 (北京李大钊故居纪念馆):http://baike.baidu.com/link?url=-kjjFBce4-SBj7yQ92jZwZrlIva4FQ_Lu8EzgjDrxDizKG3cvau3wIOynabkdso-fTng6dLFCwCx65fiEvtcC_
李大钊烈士陵园陈列馆:http://baike.baidu.com/view/766497.htm?fromtitle=%E6%9D%8E%E5%A4%A7%E9%92%8A%E7%83%88%E5%A3%AB%E9%99%B5%E5%9B%AD%E9%99%88%E5%88%97%E9%A6%86&fromid=1665078&type=syn
ここには早稲田大学時代の成績表が展示されている。
亢慕义斋:http://baike.baidu.com/link?url=tCeaufNdJzPDlp3N9wLpAg0kQZsTbywQ1stplM06-3QtMcaE8K0OFpa4cj7BfDTuSR5TtBxuY7rXJhs4gxxelK
長椿寺:http://baike.baidu.com/link?url=GRXgF9iC1lgAGY4U8mpLlMNA1RhntI2m4_m8erMkn84oZMIqFvyNO3g6wXNyRI8n-P0DYZM__Ms64lqaCg1jB_

C胡适(胡適1891—1962) 哲学家、文史学家、五四文学革命的倡导者。
江苏省松江府川沙县(今の上海市浦东新区)生まれ。父のいる台湾に渡るも日清戦争時に帰国、祖籍のある安徽省徽州绩溪县上庄村の家塾で学び、1904年上海に移り、1908年に中国新公学に入学し英文教员を兼任。
胡は「庚子赔款留学生」(北京議定書の賠償金緩和を行ったアメリカは、賠償金を中国人留学生の援助や大学(清華大学など)設立に充当)の資格を得て、1910年アメリカ留学、康奈尔大学で农科を学ぶ。1915年哥伦比亚大学哲学系に学ぶ。
1917年「新青年」に「文学改良刍议」を発表、哲学博士学位を取って帰国、北京大学教授に就く。また「新青年」の編集に加わり、白话文を推奨し、个性解放と思想自由を訴え、陈独秀・李大钊・鲁迅らとともに新文化运动のリーダーとなった。
1922年北京大学教务长と代理文科学长を兼任、「努力周报」を刊行。
1926年英国、仏国、米国、日本を遊歴。
1927年哥伦比亚大学哲学博士学位を正式に取得。徐志摩らと新月书店を立ち上げる。蒋介石と宋美龄の婚礼に出席。
1937年七七事变の後、蒋介石は中国支持を取り付けるよう胡をアメリカに遣わした。
1938〜1942年国民政府の駐米大使を務める。
1939年ノーベル文学賞の候補に上がった。
1946〜1948年北京大学校长に就く。
1949年渡米。
1955年より中国大陆にて胡适批判が始まる。
1958年台湾に定住。中央研究院院长を務める。
1962年台北にて心臓病により死去。
そのほか百度には「1938年胡适が駐米大使になると日本国内から対応策として鹤见佑辅・石井菊次郎・松冈洋右の3名を駐米大使として同時に立てるべきという意見が出た」とか、中国国内で政治批判にさらされたとき胡は「毛泽东当时的水平他考北大是考不上的」と言ったとか書いてある。
北京の故居について。北京には5か所以上あった。
・最初は缎库胡同8号。ここに住んでいた当時「尝试集」などが出版された。
・2か所目は钟鼓胡同(钟鼓寺胡同)14号。家賃は毎月20元。
・3か所目は景山大街陟山门6号。立派な公馆級の家で、ボイラー室と駐車場がついていた。その前に住んでいたのは林长民。
・4か所目は米粮库4号。
・5か所目は东厂胡同1号。前に住んでいたのは黎元洪。日中戦争が終わると北大文科研究所となり、胡は敷地内の四合院に住んだ。
http://www.bjnews.com.cn/column/2013/01/15/244361.html
また、胡適の北京生活18年間で、住んだ場所は8か所だという言い方もある。それぞれ、绩溪会馆(宣武区椿树上头条1号院)・景山东街"卯"字号宿舍(北大紅楼の南西側にあった平屋。教員は一人一部屋無料で住めた)・朝阳门内南竹竿巷4号・南池子缎库胡同8号・北河沿钟鼓寺14号・景山西陟山门6号・地安门米粮库4号・东厂胡同1号。基本北大红楼からあまり離れていない場所だった。現在钟鼓寺14号に多少名残があるがほかの場所は何も残っていない。
http://www.visitbeijing.com.cn/play/thematic/hty/n214851633.shtml
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