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zoom RSS 1943〜46年老北京 「いずこより 自伝小説」瀬戸内晴美著

<<   作成日時 : 2015/10/15 12:32   >>

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図書館に入ってすぐ目についたのが「寂聴中国再訪」という本だった。これはと思って借りてみた。戦時中の北京と文革中の北京と2002年の中国訪問時の話が書いてある。占領されていた頃だけ詳しく書いてあるわけではなかったのだけど、「いずこより 自伝小説」っていう本の存在を知れて良かった。

で、その「いずこより」を借りた。波乱万丈な展開に引っ張られて一気に読んだ。共感したり同情したりしながら読み進んだのだけど、後半になって「あれ?」って思った。一つ一つの出来事にそれなりの動機がありそれなりに説得力があるのだけど、いつの間にか一方的な都合を押し付けられているような気がした。読み物として面白いのだけど、毒っ気が強い。炎上要素満載。先日テレビで「若いうちは恋も革命も」とおっしゃってるのを見かけたが、瀬戸内流を安易に真似たらきっと“革了你的命”が “割了你的命”になりかねない。激しい人だと思った。

で、肝心の老北京に関する情報。
瀬戸内さんが新婚旅行を兼ねながら朝鮮やハルビンを経由して新婚生活の目的地北京に到着したのは1943年10月の半ば。
(1943年と言えば、李香蘭の万世流芳やサヨンの鐘などが公開された年で、郭沫若が屈原を書いた翌年で、老舎が四世同堂の執筆を始める一年前)

@1943年10月、最初に住んだのは東単の三条胡同にある紅楼飯店という「赤煉瓦建てのロシア式の建物」。「昔はロシア料理が美味しいので名を売ったホテルだった」。
紅楼飯店に行く目印は「王府井から三条胡同に曲がるとすぐ左側に見える」カソリック系のフランス人の学校。鐘が3つ付いたチャペルを併設。「寂聴中国再訪」には「その手前の細い路地に入ると見つかる」とも書いてあるのでこれらをたよりに検索したり百度地図のビューを見てみた。でも手掛かりは見つからなかった。もう残ってないのかなあ。
三条胡同について、とても詳しいブログがあった。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4aba1d6f01017eht.html
これによると、三条胡同に苏式大楼が建っていたと書いてある。もしかしたらたぶんきっとそれが紅楼飯店なのだろうけど、具体的な記述には至っていない。
民国時代の东单三条には法国圣心女学校、政闻报社、日本同仁医院、日本电通社、瑞典使馆、北京铁工厂等があったという。1995年に东方广场建設のために胡同の南側が壊された。
法国聖心女学校っていうのがフランス人の学校のことなんだろう。
豫亲王府は民国初年にアメリカ石油王ロックフェラーに買い取られ协和医院と协和医学院になった。
东单三条儿童医院は民国時代の同仁医院だった。「城南旧事」を書いた林海音の父親は1931年ここで亡くなっていて、周作人が1939年に八道湾で襲撃され軽傷を負ったときここで治療を受けているという。
当時のこの辺の地図。
http://www.bjmem.com/bjm/jcyt/cqt/200711/t20071113_4230.html
瀬戸内さんも、赤ちゃんだった娘さんを同仁会病院の眼科に20日ばかり連れて行ったことがある。
また、夫に連れられて「東単の市場」に行ったと書いてある。「夫は市場の中を馴れた足取りで歩きながら巧みな中国語で肉を買い野菜を買い乾物を買い果物を買った。市場の中は客があふれていてその七割は日本人だった。売り手はみんな中国人で取引きは中国語と日本語がチャンポンで行われている。売り手のほとんどは一応簡単な日本語を使うことができた」って書いてある。これって东单菜市场のことなんだろうか。
「歩いて5分とかからない東安市場の中の支那料理店へ夕食を食べに行ったりするようになっていた」とも書いてある。当時の北京は「東洋の真珠」と呼ばれ、王府井は「パリのサントノレより優雅で豪華」と評されていた。立地条件のいいところに住んでいて羨ましい。
「夫は師範大学に行くことと、週に3回、在留邦人向けの中国語講座の放送をしに行くことが仕事で」「彼はほとんど部屋にいて客の応対ばかりしていた」「客は日本人と中国人が半々くらい」「夫の北京での給料は日本円に直すと内地の夫ぐらいの年輩の男の2倍か3倍に当たっていた」といった暮らしぶりだった。
夫の同僚には柯清和教授がおり、その妻は日本人で「中学校へ日本語を教えに時々通っていた」。

A1944年7月10日過ぎ。輔仁大学の学長細井教授の自宅に仮住まい。訳は紅楼飯店が華北交通に買われ立ち退きを迫られたことと、夫が新学期から輔仁大学で助教授として招聘されたこと。
輔仁大学については、「カソリック系の輔仁大学はドイツ系だというので占領下の北京でも存続を認められているし北京大学や師範大学のようにまったく日本側だけで指導権も行政権も握っている大学とは違っていくらか自由なのびのびした雰囲気が残されていた」とある。
細井邸は「什刹海の北辺一帯は北京の中でも閑静な屋敷町でいかにも古都らしい俤をのこしていた。金色のどっしりとした金具に飾られた朱塗りの門と高い土塀に囲まれた細井邸は広大な四角い敷地に東西南北にそれぞれ型通りの屋子の建っている典型的な支那家屋だった」。瀬戸内さん夫婦はここの南屋子に住んだ。
周りの環境は「北京には北海とか中南海とか池が多かったがそのどれも公園になっていていつでも行楽の人々でにぎわっているのに比べ什刹海だけは電車通りの傍らにありながらまるで池というより広い沼のように寂びた雰囲気をたたえいつでもひっそりと静まっていた」とある。このあたりの電車通りといったら地安門大街。「いずこより」ではこの什刹海一帯の情景がうっとりするほど素敵な描写になっていて痺れちゃうのだけど、場所を特定できそうな記述はなかった。いずれにしろこのあたりはお屋敷ぞろいだから、細井学長のお宅も格が高い住宅だったろう。
小川で洗濯する話があって、あの辺に小川があったかなあと思っていたが、当時の地図を検索したらちゃんと載っていたので勉強になった。
妊娠出産でお世話になった病院は、院長が日本人で筒井と言う名の「西単にある小さな産婦人科の病院」だった。
細井学長とはたぶん細井次郎氏のこと。
これ、1944年輔仁大学職員名簿。「いずこより」で細井学長は中国服を着ていたと書いてあるが写真でも长褂を着ている。瀬戸内さんの夫の酒井って名前も載ってる。
http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/3/chapter4_3.pdf#search='

B1944年秋。生まれたばかりの子供を連れて引っ越した先は、輔仁大学が職員宿舎に買い取ったという建物。場所は什刹海の「その物静かな一帯の奥にあった」。
どんな屋敷かというと「昔高名な貴族の邸だったというだけに大きな寺院の山門のような門があり、門そのものの中に二家族住める部屋があり、現に大学の若い事務員の家族が二所帯生活している。門を入って一町も入った奥に邸は立っている。それまで私の見たどの家よりもそれは大規模で…」、さらには窓から床から廊下や欄間や庭や奇石まで立派なもので、紅楼夢の舞台だったらしいという伝説までついているほどの正真正銘のお屋敷だった。家具も持ってないのに「二十畳もある部屋を三つ占領し…」なんて羨ましすぎる。
この宿舎には山本という日本文学の助教授も住んだ。
「寂聴中国再訪」には2002年にここを訪れたことが書いてあるのだけど、具体的な場所は分からなかった。
当時のこの辺の地図。
http://www.bjmem.com/bjm/jcyt/cqt/200711/t20071113_4285.html
そのうち大通りで防空壕が掘られるようになり、内地の手紙が何か月も遅れるようになり、インフレが進み「師範大学よりよほどよくなった輔仁大学の俸給でさえ追いつかないほど物価は騰る一方だった」…と生活に大きな変化が出始める。また最初は生き生きと働いていた夫が新年を過ぎてから輔仁大学という勤め口に違和感を感じるようになり、結局、新しい職場を探し始めた。「いずこより」には大学の同僚として風巻景次郎氏や奥野信太郎氏の名前が出ている。
当時の輔仁大学の日本人教員について。
http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/3/chapter4_3.pdf#search='

C1945年4月か5月。北京大学への転任の話がまとまり輔仁大学の宿舎を出る。仮住まいさせてくれたのは同期の外務省留学生仲間の大橋隆也氏。場所は北新橋の静かな胡同の奥。2、3か月瞬く間に過ぎた。
7月になって夫に現地召集の令状届く。軍服・軍刀・飯盒・水筒は自己調達しろとの指示を受け、東四牌楼近くに住む増田氏に助けてもらい、5日で用意して出征。行先は門頭溝だった。
郵便事情悪く「移ったばかりの北京大学からはまだ内地からの辞令が届かず、従って私たちの手許には夫の給料も支給されない」状態だった。

D1945年「北京では最も暑い季節に差し掛かって」いた頃。男所帯の大橋家にいるわけにいかず、お手伝いの春寧を連れて出る。
新しい引っ越し先は西単牌楼頭条胡同(検索したがどの胡同か分からなかった)にある増田氏の持家。その胡同の入り口に「慰安所」がある(百度で検索すると“西单俱乐部”で出てくる)。その裏にあるこじんまりした家でやはり夫を現地召集された家族と同居。
嫁入りで持ってきた和服を処分し「つつましくすれば2年は暮らしていける」ほどのお金を用意したり、就職口を探したりする。運送店で働くことになったが、その初日に玉音放送と、北京の司令官の放送を聞いた。玉音放送は雑音で聞き取れなかったが、司令官のは市内からの放送なのではっきり聞こえた。内容は「戦争に負けたこと、陛下の意思で終戦に踏み切ったこと、われわれ外地にある国民一同は狼狽して取り乱すことのないよう、落ち着いて行動すること、身の振り方についてはどうするべきか追々司令部から知らせるからくれぐれも取り乱さす冷静に指示を待つように」。
「今に重慶軍(国民党軍)が入城するという噂が流れ…在留邦人はこのままでは済まされないのではないかと不安が胸をかすめ…そんなある日、私たち胡同の奥までいきなり遠い潮騒のようなどよめきが伝わって…明らかに行進曲であり凱旋の軍楽隊の声だった」「重慶軍の入場だわ」「春寧は粗末な紙の小さな青天白日旗を2本取出し理子の手にしっかりと握らせた」
当時のこの辺の地図。
http://www.bjmem.com/bjm/jcyt/cqt/200711/t20071113_4287.html

E1945年9月初め。無事夫が帰ったため、増田さんに借りていた家を明け渡し春寧に暇を出す。増田家(たぶん東四牌楼の近くにあるという増田邸のこと)の西の屋子で半年近く身をひそめる。夫は北京に骨を埋めたいと言った。

F北京市街の在留邦人はほとんど西郊に集結を強制させられていた頃。
何らかの理由で集結を逃れ北京に執着する人々が、田村みさ氏の用意した方巾巷の家で共同生活を始めた(方巾巷とは今の朝陽門南街の北京駅から東・西総布胡同までの段を指すらしい)。「門を入ると三列になった工場の寮のよう建物が並びその内部は6畳と4畳半の部屋に仕切られている」といった家。一時150人を超える人が住みついた。瀬戸内さん家族はそこで8か月無収入で暮らすものの、その冬石炭が去年の2倍以上に値上がりしたなど出費がかさみ、このままでは暮らしがあと3か月と持たない状況に追い込まれた。その頃最後の勧告にきた引揚事務所の役員から6月末の船が最後と聞かされ、また、夫が希望をかけていた新政府の日本人雇用名簿の中に名が外されていたこともあって、帰国の決心を固める。
6月、朝5時のトラックに乗り北京駅に行ってみると300人ほどの日本人が集まっていた。列車で塘沽へ移動し、1か月以上待たされてLST(米国船。 LST輸送船のこと)に乗って佐世保に帰る。
(「寂聴中国再訪」では「北京に暮らし続けるつもりで非合法に住み続けたが敗戦翌年6月中国軍に見つかって強制的に引揚げさせられた」と書いてある)

………
以上、北京の引っ越し7か所を並べてみた。描写される老北京は最初華やかで楽しかったのだけど終戦前後は厳しかった。インフレの進みが早いというのは言われてみてそうなんだろうなあと思った。
現地の中国人と仲が良かったかどうかについて「寂聴中国再訪」では「中国人と友好的に暮らし誠実に付き合った」とあるし、「いずこより」でもお手伝いの春寧と仲良くやってる様子は伝わってきた。でも輔仁大学に移ってから訪ねてくる中国人が減ったそうだし、国の方針に従わなければならない戦時のいやな空気を感じた。また、日本人の中にはひどい人がいて、当時ホテルのボーイが日本人から太いステッキで殴られたり靴で顔を踏まれたりするのを瀬戸内さんは知っていた。
以前読んだ「北京の日の丸」にもあるのだけど「寂聴中国再訪」でも“犬隊”で噛み殺される話が出てきた。昔の北京を調べたり話を読んだりするのはとても楽しいのだけど、悲惨で気の毒な話も付いてくる。

先日大学ランキングを調べていて輔仁大学が台湾にあることに気が付いた。輔大の説明はこちら。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%BC%94%E4%BB%81%E5%A4%A7%E5%AD%B8
輔大北平時代についてはこちら。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%94%E4%BB%81%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E5%8C%97%E5%B9%B3%E6%99%82%E6%9C%9F#.E5.A4.A7.E5.AD.B8.E5.B9.B4.E8.A1.A8

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