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zoom RSS 郭沫若とをとみの引っ越し をとみの性格

<<   作成日時 : 2014/08/11 05:42   >>

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「をとみは郭沫若のどこが好きだったんでしょうね」ってとある人に聞いてみたら「顔だったんじゃないでしょうか」と言われたことがある。

なるほど。例えば九大医学部の学生時代の郭沫若が顕微鏡を横にポーズをとっている写真なんて、なかなかカッコいい、ってかささぎも思う。それに軍服より长袍が似合う。辛亥革命が無かったらきっと立派な士大夫になっていただろう。というか、彼って頭の形も立派だし、いかにも士大夫顔してる。

確かに顔は大事。でも、をとみは見た目だけで結婚相手を選ぶような女性だったんだろうか。

「をとみはどんなひとだったんですか」って更に聞いてみた。すると齊藤孝治著「シュトゥルムウントドランク-疾風怒涛-」や沢地久枝著「昭和史のおんな 続」に詳しく載ってるよって教えてくださった。

佐藤をとみ、1895年4月5日宮城県生まれ。仙台士族の家系、柳生流の指南番を務める家柄。(父親は日清戦争と日露戦争に従軍しており、その後横浜の神学校を出て牧師をしていた)
をとみは8人きょうだいの長女で、1909年(明治42年)ミッションスクールの尚絅女学会に入学、朝5:15起床、体操ランニング朝食お祈り、授業、昼食、運動、夕食、勉強、9:20就寝という生活で、校長先生とは英語で会話していた。をとみは面倒見がよく、また負けず嫌いで、成績優秀。1914年の卒業式では総代を務めた。

校長とは英語で会話することを義務付けられていたなんて、まさに朝ドラの世界じゃあないか。

同級生が続々と結婚する中、をとみも母親に結婚を勧められたものの、それに刃向う形で東京に出てゆき自活の道を模索する。

1916年、聖路加病院では女学校卒業者を対象として看護婦見習いを募集していたところに就職。職場では英語を使い、また病院内で英語の授業も行われていた。

で、同年夏、親の決めた結婚から逃げた者同士の、運命的出会い。
で、手紙をやり取り。郭はをとみを「安娜(アンナ)」と呼ぶ。なぜアンナかというとトルストイの「アンナカレニーナ」
から取ったんだそうだ。(どんな話かは読んだことがないので知らない。意味深でしょうか)
で、冬には同居(をとみが女子医専の受験勉強に専念できるようにするため)、翌年春にそれぞれの道を歩みだしたが、すぐ5月には妊娠が分かって二人は夫婦になる。
そして、をとみの苦労の日々が始まる…。

………
たとえば引っ越しの話。
をとみの結婚生活は1916〜1937年7月25日(郭がこっそり市川の家を出るまで)としての21年間でどれだけあちこち移動したか、数えてみた。
-岡山の第六高等学校時代-
1・岡山市弓之町81番地柘植(つげ)宅の二階…をとみと同居するために郭が選んだ場所
-九州帝国大学医学部時代-
2・九大医学部の裏門に近い、質屋の倉庫二階…福岡に転居して最初の家
3・筥崎宮の前、二階建ての一軒家…中国から目の治療にやってきた陳老人やその家族の食事係を務める。成仿吾も同居。
4・網屋町の家…一階は土間と居間、二階は二間ある。家賃月6円。
-郭が上海へ渡る-
5・箱崎町の家…台所つきの土間と和室一間。郭がいなくなってから引っ越した家なので、郭が2か月後に戻ってきたとき探し回った。
6・医学部裏門に近い、質屋の倉庫二階…ここは二回目。
7・抱洋楼…掃除・管理を任される
8・網屋町の家…ここも二回目。
-一家総出で上海に移住-
9・上海哈同路民厚南里…泰東書局の近く。環境悪く子供の体力低下。
-をとみ耐え切れず子供を連れて福岡へ帰国-
10・箱崎網屋町…家賃が月20円と高いが環境がよかった
-郭も上海に嫌気がさしまた日本へ-
11・質屋の倉庫二階…暮らしに困ったので月10円と安いここに再びやってきた。
12・称名寺脇の一軒家…原稿料もらえたので大奮発。月35円。静かで落ち着いていた。
-温泉に長期滞在-
13・熊の川温泉
-また一家で上海へ-
14・上海環龍路44弄8号
-広東大学(のちの中山大学)に就職-
15・広東大学
-郭が北伐に参加。郭と連絡が取れないをとみは広州を出て上海、武漢を移動-
16・上海楽安路…内山書店の近く。日本人の協力を得て上海で郭を待つ。
-亡命-
17・市川町真間2-24…村松梢風、横田兵左衛門の協力で借りた
18・市川町真間下11…近所の見る目が変わってしまったので引っ越し
19・市川町須和田…土地を借りて一軒家を建てる。郭は執筆で忙しいのでをとみがすべてを仕切った。

九州時代は荷物が少なかったと言うが、それでも大変には変わりない。昔の人って本当に辛抱強いなあ。
をとみは人の面倒をよく見る性格で、一度決めたらブレない人だったそうだ。でんと構えているところはさすが武家の出だ。

………
で、をとみはなんで郭と結婚したんだろうって考えていたのだけど。
勘当されたまま、一生母親と和解することがなかった。故郷に帰ることもなかった。
郭の父親のをとみに対する見方は「妾」だった。手紙にそう書いてあるのだそうだ。
辛いじゃないか。こんな面倒な結婚なら、いっそ清算してしまおうと思わなかったんだろうか。
当初、女医(助産師?)になる夢を持っていたのなら、出産をあきらめるとか、生まれた子を養子に出してしまうとか考えなかったんだろうか。そもそも郭を恨まなかったんだろうか。
彼女はキリスト教徒だから、そんなこと考えもしなかったんだろうか。

本を何冊か読んで思った。をとみは郭のたぐいまれなる才能と魅力に惹かれに惹かれ、惚れに惚れまくったのだ、と結論付けるのが一番納得がいくように思う。英語での会話や手紙のやり取りができて、短期間で日本語もうまくなって、文学の趣味が合って、詩を作ってプレゼントしてくれるし、六高時代は数学もよくでき、将来は立派なお医者になるであろう多才で有能な青年。縁あって一緒になったのだから、これからお医者様になっていただくまでは私がきっちり支えて見せましょうって思ったのではないか。とにかく好きで好きでたまらない、そんな猛烈な勢いでもないと、踏み切れないでしょ、こんな苦難だらけの結婚…。

その後、郭が医学から文学に転向する過程でともに悩んだり、郭が北伐に出たことで翻弄されたり、亡命後はすっかりかかあ天下になったり…。どんどん鍛えられて時とともにますます強くなってゆくをとみがすごい。郭が亡くなった後のをとみの言葉なんて恐ろしいくらいだった。
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