北京で勇気十足

アクセスカウンタ

zoom RSS 桜花書簡 郭沫若 機会主義

<<   作成日時 : 2014/07/20 09:19   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

北京の学校で勉強していたとき、高级口语の先生が魯迅の名前を言うときは「鲁迅先生」と“xiansheng”付きになるのだけど、 郭沫若の名前を言うときはなにも付けなかった。だからなんとなくかささぎもそうなっちゃう。
 
………
親の意向に従って郭沫若が結婚したのが1912年(明治45年)の春節休み。郭は20歳(中国は数え年で言うことが多いからめんどくさい。正確に言うと19歳と3か月前後)。相手は張琼華という女性。ある本によると当時15歳だったというが、彼女は1890年生まれだから22歳ってことになる。
彼女も親の言いつけに従っただけだった。たった5日間一緒にいただけの結婚。中国語でよく言う“嫁鸡随鸡,嫁狗随狗”、つまり結婚したからには相手がどんなであれ一生添い遂げるのが“妇道”であるという当時の考えに基づいて、彼女は一生郭の家の者として、再婚することはなかった。姑が亡くなった後は痴呆の始まった老いた舅の世話を一切引き受けたという。
最後まで嫁としての務めを果たした、けなげな人だったんだ。写真見たけどそんなサル顔じゃないと思う。(でも三番目の奥さんは確かに美人だった。)

郭沫若の彼女に対する気持ち、何の本を読んだらわかるのか見当がつかないので、「桜花書簡」という本を読んでみた。郭が日本に渡ってから故郷に送った66通の手紙(1913〜1923年まで)がまとめられている。翻訳には郭沫若の研究で有名な藤田梨那氏と武継平氏も名を連ねている。詳細な説明がついていてわかりやすい。

手紙の内容は、両親へのあいさつと気遣い、近況報告、社会情勢、受験や進学の話、兄弟姉妹親戚の話(特に弟の勉強には厳しい)、送金依頼と受領の報告など。後半は子供の話(第一子から第三子誕生まで)もある。
日本の習慣では特に正月の様子を詳しく紹介している。お餅の話とか。郭は正月が好きなのかなって思ったのだけど、よく考えてみたら、新年の挨拶状としてこの時期に手紙を書いているからその話題になるわけだった。

で、ざっと数えてみた。をとみと出会った1916年(大正5年)6月以前、故郷に宛てた手紙38通の中で、張琼華に触れたのは3通だけ。そのうち2通は1914年6月に両親宛てに書かれたもの。1通には「二番目の兄から受け取った手紙の中に妻の一枚が付してあり、父上母上共に健在で、また家中の者が無事息災で安心した」って書いてある。もう1通には「いとこの手紙と二番目の姉の手紙と嫁の手紙を1通ずつ受け取りすべて読んだ。家中事なしと知り安心した」と書いてある。もう1通は弟に宛てた1915年7月の手紙で「八姉さん(張を指す)の手紙は全部読んだ。返事は私の代わりにお前がしておくれ。私は忙しくて返事を書く暇がない。返事をする必要もない。私の代わりに父上母上の面倒をよく見てやってほしいと伝えておくれ」とある。
この時期、郭沫若が張琼華へ返事を全く書いていなかったと断言はできないが、これらを見るとやっぱり郭は冷たいというか、親には義理立てしてるようだけど、張琼華のことは極力避けているように思える。

をとみと出会った後の手紙は全部で28通。うち張琼華に触れているのは4通。
1918年3月に両親宛てに書いた手紙。おとみの存在を知った両親がいよいよ怒った時に、郭が許しを請うために書いたもの。“受け取った手紙が親からのものではなく弟の書いた手紙だった”とあるが、これは両親が手紙が書けないほど激怒していたことを示しているのだそうだ。また「私が不孝者で父上母上にご心配をおかけした。言いつけに従って玉卿(張を指す)の手紙にすでに詳しい返事を書いた。迷惑を掛けてしまった。どうか父上母上が私の不孝を許してくださるように。私が家に帰れない理由は玉卿宛ての手紙に記した」とある。結びの挨拶には今までの手紙に見られなかった「妻にも宜しく」の一言まで添えてある。
この時ばかりはさすがの郭も覚悟して張琼華にちゃんとした手紙を書いた。その手紙が残っているのか知らないが、親にしこたま怒られた後だもの、きっと誠意をこめて謝ったのだろうと思う。
「桜花書簡」の説明によると、この時の様子は「漂流三部曲」という文章に記述されていて、「何度か家に手紙を書いて離婚しようと決心した。しかし老父母を哀れに思い…、その上彼女に死を迫り無辜の女を殺す罪名を自ら負うことはできなかった」と書いてあるそうだ。つまり親の決めた結婚に真正面から反抗しその面子をつぶすわけにもいかなかったし(金銭援助を受けているので軽率な行動はとれない)、まして彼女を追い詰めて自殺されたらとんでもないって考えた。
1918年5月の両親宛ての手紙には、「今日、玉卿(張のこと)の手紙を受け取った。それには父上母上の哀痛の情が述べられていて、私は心気動転している」とある。郭に送った彼女の手紙には、自分の立場より義父母の心情が強く訴えられていたのだろうか。そうだとすれば彼女は義父母の面子を立てたことで自分の強みにしたことになる。彼女は“糸の切れた凧”夫を待つ嫁の身でありながら、実は郭の家にしっかり定着していたってことになる。義父母も不憫に思って大事にしたのかもしれない。
1919年11月の手紙。「妻に宜しく」の結びの挨拶がある。
1920年3月の手紙。「妻に宜しく」と結びの挨拶。親に叱られてから、郭は張琼華に気を使うことを覚えたのだろうか。

ところで、四川の両親はどうやってをとみの存在を知ったんだろうか。「桜花書簡」に載っている郭の手紙にはをとみを娶った報告がない。注意深く読めば存在を匂わせる遠回しの表現があるのだそうだが、かささぎには全然伝わってこない。「シュトゥルムウントドランク」という本によると、郭は長兄には彼女の存在をそれなりに伝えていたようだと書いてある。ちなみに第一子の和夫と言う名前は長兄に命名してもらったそうだから、長兄には最初から認めてもらっていたことになる。両親の怒りが収まっていないときは弟が間に入ってとりなしてくれたのだそうだ。

当時若干19歳の郭は親の言うなりになるしかなかった。をとみと所帯を持ったときは先妻がいるから両親に言えなかった。周囲や彼女への影響を考慮し敢えて張琼華と離婚しなかった…。彼にはけじめをつける勇気がなかったんだろうか。
郭沫若ご本人が「我的结婚」で認めているのだが、こういう態度は“机会主义”(日和見主義)って言うのだそうだ。都合のいい方に流れて行くのは弱い人のようだけど、したたかで頭が回る人って感じもする。

ちなみに“包办婚姻”は昔良くあった。魯迅先生の話は有名だし、胡適も李大钊も郁達夫も孫文も毛沢東も蒋介石もそうらしい。うまくいった人もうまくゆかず離婚に至った人もいるそうだ。
にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
桜花書簡 郭沫若 機会主義 北京で勇気十足/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる