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zoom RSS 北京大学「紅楼」の悲しい歴史 当時の警察と監獄

<<   作成日時 : 2012/02/06 14:14   >>

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小説「四世同堂」にはキツイことも結構書いてある。
どこまで事実でどこから創作なのか、その線を探すのが素人には難しい。

小説の中で信じられないと思った話に「北京大学が“監獄”になっていた」という話がある。
銭默吟は日本の憲兵に、祁瑞宣は日本人の指示でやってきた中国の兵士に捕まっている。家にやってくるから逃げることもできずに捕まってしまうのだけど。で、連れて行かれるのが監獄、つまり北京大学。二人ともここで地獄を見ている。

北京大学の古い建物である赤レンガの「紅楼」は1918年に建てられた。場所は五四大街29号。最初は北大文学院として使われた。今は見学できるよう公開されている。中国の有名な偉い人が沢山たくさんかかわっていた、新文化運動、五四運動の中心地だったって事が勉強できるよう、庭の一角には資料館もあって、解説がびっしり展示されている。もちろん「紅楼」の中にも入れる。とってもいい風情の素敵な建物なのでお薦め。

でも「日本に占領されている間、ここは監獄になっていました」なんて一言も書いていなかった。

検索してみるとこういう文章が出てきた。
http://pkunews.pku.edu.cn/zdlm/2007-09/03/content_116135.htm
「1937年9月3日,日军进驻北大第一院(沙滩红楼)和灰楼新宿舍。中国文学院院长室挂上标志“南队长室”,是侵略者的领导机关。红楼成为日本宪兵本部后,楼内的地下室成了宪兵队本部“留置场”(拘留所),许多爱国志士、燕京大学和辅仁大学青年学生和教授如孙道临、张东荪等都被关押在这里,遭受非人迫害。根据曾经被关押者的回忆,地下室甬道两边全是狭小的单间屋。靠西头的两排约14间囚室,全部改为木栅门,称为笼子。往东是刑讯室。看守所东西头各一门,看守的宪兵分班轮值,日夜巡逻。以自由民主为旗帜的北大红楼在被日本军队占领期间,拘留了传播知识、教授文明的师生,成了关押、残害中国人的人间地狱。这是红楼历史上最K暗和耻辱的岁月。」

ほかのサイトにもこういう文がある。
「据周作人回忆:“北平沦陷之后,民国二十七年(1938)春天,日本宪兵队想要北大第二院做它的本部,直接通知第二院,要他们三天之内搬家。留守那里的事务员弄得没有办法,便来找那‘留平教授’,马幼渔是不出来的,于是找到我和冯汉叔。但是我们又有什么办法呢?走到第二院去一看,碰见汉叔已在那里,我们略一商量,觉得要想挡驾只有去找汤尔和,说明理学院因为仪器的关系不能轻易移动,至于能否有效,那只有临时再看了。由我起草写了一封公函,由汉叔送往汤尔和的家里。当天晚上得到汤尔和的电话,说挡驾总算成功了,只是可惜牺牲了第一院给予宪兵队,但那里只积存了文科讲义之类的东西,散佚了也不十分可惜。”」

岩波書店から出ている「北京の日の丸」という本。
これに当時の様子が載っている。ざっとこんな感じ。
「“紅楼”は北平日本憲兵隊本部とその分隊の所在地だった。地下室には「留置場」があった。地下の西側の14室が牢屋になっていて、東側には拷問室があった。拘置者には日本人もいて味噌汁と米を食べていた。中国人はマントウとおかず。食事条件はわりと良かった」

ちなみに、かささぎが見学に行った当時、「紅楼」の地下室は公開されていなかった。事務室になっているのかと思うのだけど、下から上がってきた職員に「これより先には入れません」って言われた記憶がある。

………
当時の警察がどんなものか、とっても難しいのだけど、一応メモ。

警察総局という。場所は今の歴史博物館のあるところ。(元は清朝吏部衙門。北洋政府の京師警察総監署、国民党政府の北平公安局もここ)
組織の構造は、国民党時代の公安局のものを踏襲したものだが、被占領期間8年間は、顧問室、特務課、経済課、監察処が増設されていた。

この警察総局の組織の一番上が局長室と顧問室。
(局長は名目上最高責任者であったが、重要なことは日本人顧問の指示を仰がないと決められなかった。局長は日本陸軍士官学校出身の余晋和、初代顧問は華北派遣軍司令部特務機関から派遣された岡野と言う人物)

その下に配置された組織は以下のとおり。
警務課
保安課(市民戸籍掌握、住民証支給)
警法課
特務課(政治犯・思想犯をつかまえる、特務大隊を指揮する)
経済課(経済封鎖の監督点検、監察処、秘書室)
警察大隊(市内警備。さらに郊外に分駐し遊撃隊進入を防ぐ)
車警大隊
偵緝隊
特務大隊(民衆の不満言論を収集、特務課に報告)
婦警隊(婦女子の身体検査係)
消防隊
警察教練所

警察分局(一時警察署とした)には、内城7区分局、外城5区分局、郊外4区分局の全部で16分局。分局には警務、保安、警法、特務、経済係があった。
分駐所というのは、分局の出先機関、派出所を管轄。派出所は警察の基層組織。
分局管内は、居住区で分けられ、各区には派出所が置かれた。(「四世同堂」に出てくる白巡査長(白巡長)はここに所属するお巡りさん)

………
当時警察に捕まった人がその次どうなるのか。やっぱり良くわからないのだけど、こんなことも書いてあった。

日本軍の華北における最高軍法機関である日本軍事法廷が、華北多田部隊軍法部だった。「軍法会議」と呼ばれていた。
場所は鉄獅子胡同の建物内で、西側入り口から入って道路の北側にあった。
ここで抗日分子と漢奸の規律違反者が裁判を受けた。
( この場所って、もしかして清陸軍部・海軍部旧址(段祺瑞執政府旧址)のあるあの立派な建物??)

判決が出ると、北新橋の炮局胡同にある、元・国民党の陸軍監獄の東院に送られた。ここは環境が劣悪だった。
同じところにある西院は「河北第一監獄外部委託犯人臨時収容所」だった。ここでは足かせをして労働させられた。

憲兵司令部所属の北平西苑更生隊というのもあった。場所は頤和園の北東側(今の高級党校)。当時日本軍に投降した国民党兵士が警防隊をしていて、ここで犯罪者は日本の兵営に労役していた。

かささぎの理解したイメージはこんなかんじ。
警察局拘置所にまず入って→日本憲兵隊本部留置所(紅楼)で取調べを受けて→多田部隊軍法部(日本軍事法廷)で判決を受けて→炮局胡同の収容所などに送られて労役させられるか南苑で処刑。
(ちなみに「炮局胡同」という地名には恐ろしいイメージがついている。
炮局的监狱是有历史的,清末、北洋政府、日伪时期和国民党统治时期一直都是监狱。北京有句俗话:“你小子再不老实,就送炮局”,指的就是炮局监狱…ということで泣く子も黙るおっかない場所だった)

「四世同堂」にはほかにも徳勝門(コ胜门)の監獄も出てくる。恐らく“功コ林”監獄(国民党“第二模范监狱”)のこと。場所は新康路新明胡同治安总队大院の西側、康街甲1号院。
遊撃隊による牢獄破り(1937年8月22日)の話は本当だった。説明と写真はこちら。北京晨報より。
http://www.morningpost.com.cn/bjcb/html/2011-06/15/content_99648.htm
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