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zoom RSS 南苑空港と西郊空港 西苑集中営 

<<   作成日時 : 2012/02/17 00:33   >>

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四世同堂の第21章。
「日本人进了城,并没有轰炸南苑与西苑的飞机把北平城内的瓦片也炸平…」

北京の地名で、“西苑”っていうのがちょっと困る。「蒼穹の昴」にでてくる西苑は今の中南海を指しているし、この「四世同堂」に出てくる西苑とはかつて康熙帝が造った離宮・暢春園のあった一帯(北京大学のあたり)のことを指している。つまり2か所ある。
百度百科によると、民国8年(1919年)に書かれた文書「西苑俘虏收容所收容コ奥俘虏情况」の西苑とは後者のほうを指している。

西苑集中営について。新京報の記事より。
http://epaper.bjnews.com.cn/images/2010-08/23/D08/d08823c.pdf
昔むかし、西苑に清朝の禁衛軍の兵営があった。民国になってからもずっと兵営として使われ、盧溝橋事件の前後は第29軍第37師の師部がここに駐屯していた。北京占領後は日本軍の兵営として使われ、西苑集中営(この機関の名称は西苑更生隊などと何度か変更されている。詳しくは新聞記事参照)を設けて国民党軍の捕虜・共産党党員・八路軍兵士・一般市民を収容した。日本降伏後は日本難民収容所として使われた。国共内戦時には国民党兵営として使われた。1949年共産党が接収し、ここに華北人民革命大学を建てた。大学が移転した後は中共中央委員会社会部となり、中枢機関として今にいたる。
(西苑集中営があった場所は現・中央党校の所在地だという考え方が今まで主流だったが、この新聞では否定)

西郊空港(西苑空港とも呼ばれる)について。
北京西郊空港は中国人民解放軍空軍専用の飛行場。環状4号線と環状5号線の間の、頤和園の南側、香山の東側に位置していて、市街区に一番近い。華北地区で最も重要な空港であり、党の要人が利用することで有名。
この空港は1938年に日本人が建設したもので、1945年終戦で国民党が接収、その後中国人民解放軍華北航空が1949年1月に正式に接収。もと国民党パイロットによって華北空運大隊が結成され、今は中国人民解放軍空軍の管轄。滑走路は長さ2400m幅50m、空軍一級飛行場(民間飛行場の飛行区ランク3Cに相当)、ボーイング747以下の発着が可能。軍用目的に作られており、滑走路が格納庫と駐機エプロンの間にある形は国内では比較的珍しい(上から見るとその全体像は機関銃の形に似ている)。飛行機が方向を変えるとき便利なように滑走路の南端が広くなっている。2003年、2005年、2008年と、宇宙飛行士の楊利偉、費俊龍、聶海勝、景海鵬、翟志剛、劉伯明が任務を終えた後ここで出迎えを受けており、“立功空港”と呼ばれる。現在は空軍某師の第100団と第101団が駐屯。
1956年、北京首都空港完成により西郊空港は客運を終了。
1957年、軍に正式移譲。空港の拡張。
1976年、唐山地震の被害を受ける。更に空港を拡張。
1979年、拡張工事終了、格納庫増設、今の姿になる。
1999年より、有人宇宙飛行の基地空港になる。(1999年から2008年までの間、神舟1号〜7号はここから打ち上げ基地まで運び出された)
衛星写真はこちら。確かに機関銃みたい。
http://baike.baidu.com/view/2399399.htm

環状4号線の北西側を路線バスで走ってると、道路わきに「西郊机场」の看板がみえる。位置の見当は大体つくが、具体的な行きかたは知らない。地図にも載っていない。あまり聞いてはいけないことって確かにあるのだと思う。

………
南苑と南苑空港について。
南苑とは、環状4号線(南側)から環状6号線(南側)までと、京開高速から京津塘高速に囲まれている、広大な範囲を指す。
この一帯は元・明・清にわたって皇家の御苑だった。清朝時代には皇族が狩猟を楽しむ場所であり、軍隊が訓練をする場所でもあった。

1900年義和団の乱のとき、日本軍がこのあたりを破壊している。一時荒廃したがその後田畑が開墾された。
1910年8月に清政府が航空事業として南苑に飛行機工場を建設し、飛行機試作に着手。
更に、南苑にあった毅軍の練兵場を利用して簡易滑走路を敷設。
(よって南苑空港は中国で一番最初に造られた空港と言われている)
1913年、袁世凱は南苑に中国初の正式な航空学校である南苑航空学校を開校、同時に飛行場を建設。
これより、この地に兵営が長期に渡って存在することになる。地名「二营门」「三营门」はその名残り。第29軍の軍部がこの地に配置される。
1937年7月28日、南苑戦闘が発生、副軍長佟麟閣と師長趙登禹がこの南苑で戦死。
北平占領後、南苑には日本軍兵営が設営され、飛行場が拡張された。それが今の南苑空港。
1949年中華人民共和国成立後、北京郊外区で最も重要な軍用空港に位置づけられた。
元は軍用空港だったが後に軍民共用となっている。天安門広場から13キロの距離にあり、飛行区ランクは4C。
2007年、年間旅客数120万人に対応可能なターミナルが造られた。
南苑は、近年北京近郊にある農業区・工業区として重要視されている。
西南側には団河行宮遺址公園や南海子麋鹿苑があり、憩いの場になっている。

南苑兵営司令部旧址について。
南苑空港の敷地内にある南苑兵営司令部旧址は、清朝末から民国時代に多くの軍事指揮機関または司令部があった場所である。特殊な様式を残す建造物は近代史上貴重な資料になっている。1991年に北京市文物保護単位に指定。
近代における南苑で軍の駐屯が正式に始まったのは、清政府が1894年に神機衛(火器担当の部隊)を通州から移転させたことに始まる。当時の南苑には兵営が6か所存在した。
1904年〜1905年に袁世凱が陸軍六鎮を整備したとき、陸軍第四鎮を河北保定から南苑に移動させ、近畿陸軍第六鎮を再編し、これを王世珍が統制した。よって陸軍第六鎮司令部の所在地が南苑となる。当時の馮玉祥は司務長、排長だった。
1907年、徐世昌が東三省総督に着任、第六鎮は東北へ移動。
1912年、すでに営長になっていた馮玉祥が南苑に戻る。
1922年、馮玉祥は陸軍検閲史として、再び南苑に駐屯。(当時の官署がここにあったため、この地を“陸軍検閲史署”または“七兵営”とも称する)
1924年、馮玉祥は北京政変を発動、曹錕の直系政府を覆した。溥儀を紫禁城から追放するとき、ここに師部を配置した。その後国民革命軍第29軍も軍部をここに置いた。
1937年盧溝橋事件のとき、佟麟閣副軍長が率いる軍部が各所で日本軍の激しい攻撃を受け移動中に殉死。
南苑兵営司令部旧址に残存する、影壁・大門・衛兵室・司令部は中国様式と西洋・ゴシック様式の折衷式になっている。敷地総面積は3912平米、建築面積は724平米。4列に配置された事務室並びに住宅は蘇式彩画が施された清代園林式の建築物で、中国近代建築としては珍しい様式。

日本軍占領時の西苑空港と南苑空港の建設や拡張工事の様子についても検索してみたのだけど具体的なことは分からなかった。ドラマ「生死线」に出てくる、無理やり飛行場を建設させられるシーンがちらついたのだけど。
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