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zoom RSS 日本軍占領期における北京の大学事情

<<   作成日時 : 2012/02/13 13:33   >>

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小説「四世同堂」には当時北平にあった大学の様子が直接出てこないので、ちょっと話がそれるのだけど、以前からずっと気になっていた言葉“南迁”の背景も知りたかったので、検索してみた。

当時、北京にはいろんな大学があった。
国立大学なら、北京大学、清華大学、北平師範大学(いまの北京師範大学)、北京交通大学、北平大学。
私立大学なら、燕京大学、輔仁大学、協和医学院。(ともにミッション系)

1937年北京も天津も占領されると、国民政府は北京大学、清華大学、天津の南開大学とを湖南省長沙市に移転させ、これら大学を統合して長沙臨時大学を設立した。更には1938年に雲南省昆明市まで移転させて、大学名を西南聨合大学に改称している。
また、北平師範大学と北平大学は天津の北洋工学院とともに陝西省西安市に移転、統合して西安臨時大学になっている。
北京交通大学だって、湖南省に移転している。

当時北京にあった国立大学はことごとく引越しをしている。なんでそんな面倒なことをしたのかというと。
それは、日本軍管理下におかれる影響を避けるため。わざわざ面倒なことをしたんじゃなくて、そうせざるを得なかったわけ。戦争から逃れるための移転。これが“南迁”だった。(西の方角に移転した場合は“西迁”)

例えば、北京から昆明まで(沿岸部から中国のずっと奥地まで)約3000キロもある。校舎の問題、教材や図書の問題もあるだろうし、先生は家族も連れて行くのだろうし、生徒なんてもっと困ったんだろうし、親はどんな気持ちで送り出したんだろう。雲南への行程では車が使えなかったとか、宿舎も教室も茅葺きで雨漏りしたとか、1941年8月には大空襲で爆撃を受けたとか、苦労話が色々残っている。

ところで。周作人が働いていたのも北京大学。こちらは中国語で言う“伪北大”のこと。“南迁”せずにそのまま残った教授らが、日本の影響下で運営した「北京大学」のことを指している。この北京大学がどんな様子だったのか、日本人教員がどのくらい派遣されてきて、どんな授業をしていたのか、検索では良くわからなかった。
(話が違うが、四世同堂に出てくる“牛教授”って周作人のことを揶揄していると思う)

では、当時の私立大学はどんな様子だったかと言うと。日中戦争が始まっても欧米ミッション系の学校は、その経営する組織が敵対国にあったわけではないので存続できた。ただし日本側の強い圧力を受けて日本人教員の雇用は強制されていた。
1938年8月、輔仁大学と燕京大学は、日本大使館との間で日本人教授を招聘する協定を結んでいる。
だが、太平洋戦争が始まると敵性学校と見なされ、結局は日本軍から閉鎖の命令を受けている。

こうして、燕京大学は日米開戦後に閉鎖させられた。この大学はアメリカ系だったから。
この大学がどんな日本語教育をしていたのか、よくわからなかった。検索していたら、この大学で教えていた鳥居龍蔵という人物が出てきたのだけど、この人物は「ある老学徒の手記 」という自叙伝を書いているそうだから、これを読めば当時のことが分かるかもしれない。また、この人はとても研究熱心な学者だったが、この人自身が当時日本軍の監視を受けていたばかりか、日米開戦後は一年以上も北京で軟禁生活を強いられていたそうだ。
12月8日に日本兵がやって来たとき教授と学生が逮捕されている(「北京の日の丸」には逮捕された教授の手記が載っている)。海淀にあった校舎はそのまま日本兵に占拠され、撤収したのは日本が敗戦を迎えたときだった。
その場所こそが今の北京大学。

輔仁大学も太平洋戦争が始まると閉鎖されかけたのだけど、なんとか存続し続けることができた。なぜ大丈夫になったのかというと、経営する神言会の活動拠点がアメリカとドイツにあり、大学経営をそれまで任せていたアメリカ人神父から、日米開戦後にドイツ人神父に代わってもらう形で、ドイツの庇護を受けることができたから。
この大学にも日本人教員が働いていた。最初に招聘されたのは細井次郎という人物で、軍が期待する政治的活動には積極的な人ではなかったそう。ちなみに月給300元。
この大学では1941年までは日本人教員数が少なかったが、日本言語文学学部ができてから教員数が増えた。聴講生などを含めば生徒は多かったが、正式な学生はそんなに多くなかった。また、この学部は3年でなくなってしまっている。
どんな先生がいてどんな授業をしていたかはここに詳しい。
http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/3/chapter4_3.pdf#search='
ちなみに、 瀬戸内寂聴さんの旦那さんだった酒井悌氏は戦時中この輔仁大学で教鞭をとっていた。
終戦とともに日本人たちは日本へ帰ってゆくのだけど、その後国共内戦が激しくなり、この大学はアメリカ系であるがゆえに党から敵対視され、最後は中華人民共和国に接収、北京師範大学に組み込まれている。

今回参考にしたのはこちらの資料。
中国の大学と日中戦争
http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1700/1/rekisikenkyu24_p29-44.pdf#search='
戦中期北京輔仁大学の日本人教員とその戦後
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=13401

………
※内容追加。
新民会の活動内容、特に抗日図書の接収について書かれてある。当時存在した学校の名称も沢山載っている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007985515


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