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zoom RSS 清明上河図にまつわる秘話 溥儀の夢

<<   作成日時 : 2012/01/27 18:33   >>

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上野で大人気だった「清明上河図」について調べていたら出てきたのが、北京テレビの番組「档案」で紹介された「国宝奇案之溥仪自偷清明上河图始末」の回。この絵が“縁起の悪い絵”とされたことや、溥儀がこの絵を“盗んだ”とはどういうことかとか、行方不明になっていたのがどうやって見つかったのかとか、まとめて説明してくれている。

以下、番組の内容。

北宋の宮廷画家・張択端(张择端)は清明上河図を描き上げて徽宗に献上した。画人としての才能も優れていた徽宗はこの絵をたいそう気に入って所蔵したことに始まり、その後代々皇帝はこの絵をこぞって所蔵するようになった。

この絵と溥儀の関係はとても深い。溥儀は故宮のお宝を持ち出しているが、その中には最高の価値のある清明上河図も含まれていた。自伝・我が半生(我的前半生)にはこう書かれている。
「我们行动的第一步是筹备经费,方法是把宫里值钱的字画,古籍,运出宫外,最重要的是北宋张择端的清明上河图。」

なぜ溥儀は自分のものであるこの絵をわざわざ“盗んだ”のか。また“資金準備”とはどういう意味か。それは溥儀の考え方に大きな影響を与えた、庄士敦(レジナルド・ジョンストン)と関係がある。

ジョンストンはオックスフォード大学の文学修士。威海衛(威海卫・今の山東省威海市・当時はイギリスの租借領)に派遣され、政府秘書や、「正华务司」「南区行政长官」などを歴任した。彼は中国語に長けていただけでなく、中国の歴史や文化にも詳しく、1919年2月22日、中華民国内務部と清王室内務府とイギリス大使館との間の取り決めによって、ジョンストンは溥儀の先生として英語・数学・歴史・博物・地理などを教えることになった。
溥儀にはもちろん中国人の先生もいたが、外国の玩具をくれたり時に遊んでくれたりするジョンストンのことを気に入っていた。珍しいものに興味を持ち、洋服を着てみたり、自転車に乗ってみたり。影響をどんどん受け、そのうちイギリス留学を夢見るようになったが、周囲から反対を受けたうえ、彼の手元には留学資金も無かった。

ここで、吉林省社会科学院の王研究員の話。
「宮廷維持のための経費は莫大なものでした。太監(宦官)だけでも1000人以上、女官も数百人。今まで同じように宮廷を維持したくても、すでに廃帝しており皇帝としての権力もないので当然税金を徴収することもできない。だから資金が欲しければ、お宝を売ったり、抵当に入れるしかなかったのです」

溥儀自ら質入に出かけるわけにも行かないので一計を案じた。
当時溥儀と溥傑の兄弟は宮廷内の同じ場所で勉強をしていた。溥儀は弟にお宝を下賜する形をとり、一日の勉強が終わるたび書画を渡した。溥傑はそれを風呂敷包みにして自分の部屋に持ち帰る。当時溥傑も宮廷内に住んでいたから、これを紫禁城の外に持ち出すためには更に別の人間の協力が必要だった。そこで下っ端太監に外に持ち出す役目を負わせた。

当時、溥儀が溥傑に下賜したお宝とは。
王守仁白书诗帖 一巻
董其昌诗帖真迹 一卷
阮郎女仙图真迹 一卷
などなど。毎日まいにち半年間に渡ってお宝は持ち出され続ける。
1922年11月16日までに、持ち出したお宝の数は1285件、画帖は68件にのぼった。
その中には唐の「簪花仕女图」、五代時代の「珍禽写生图」など、特に価値の高いものがほとんど持ち出された。そして、そのなかに「清明上河図」もあった。

その後、この若い下っ端太監は内務府に告発してしまったので、溥儀はお宝を二度と外へ持ちだすことはできなくなった。同時に留学の夢も消えた。

更に溥儀は1924年馮玉祥により紫禁城を追い出され、皇后や太監、御医など30人余の人たちと結局は天津の日本租界・張園にたどり着いた。清明上河図もほかのお宝とともに7、80個の木箱に入れられ、張園内の建物に保管された。溥儀は天津でお宝を売り(清明上河図は売っていない)資金調達をするとともに、ジョンストンを通じてイギリス留学を画策し続けたが、この頃のイギリスはすでに非協力的だった。

1931年9月18日、満州事変。
1932年3月9日、満州国執政に就任。溥儀は長春市东北光复路にある、満州国皇宮に住んだ(1932〜45年)。絵は皇宮の東側にある建物(书画楼)に保管された。

1945年終戦間近、関東軍から3日間の出発準備期間を許された。溥儀は自らお宝をチェックし、木箱57個にお宝を整理しなおして入れた。
8月11日、長春市に空襲警報が響き渡る雨の夜、溥儀は満州国皇宮を離れ、通化に行く列車に乗った。

なぜお宝全部を持ち出さなかったのだろうか。
ここで、当時同行していた恭親王の子供・毓嶦の証言。
「これからどうなるのか、どう逃げれはいいのか誰にも分からない状態だった。美術品を持ち出すよりはもっと実用的なもの、例えば米、小麦粉、食用油等を持って行くほうが良かろうと。宋代の書画って言ったって食べられやしないからね。飢えないように食べ物にしようと。あと、服など着るもの。実用的なものですよ」
結局、そのとき持ち出せなかった残りのお宝は散失してしまった。

12日夜、列車は通化に到着したが、駅で待っていた日本司令官から状況が変わったことを告げられ、そのまま臨江県の大栗子溝に向かった。
13日早朝、大栗子溝(大栗子沟)に到着。ここは住民が百数十人しかいないという山の中の小さな村。溥儀は大栗子溝鉱業所の所長の家に泊まった。

………
ここで、清明上河図にまつわる、縁起の良くない伝説の説明。この絵は持ち主に幸運をもたらしたわけではなかった。
遡ること800年。北宋皇帝・徽宗がこの絵を手に入れて間もなく、1127年靖康の変が起こった。徽宗と父・欽宗は金軍に捕まり、清明上河図は宮廷から盗まれて民間に流出してしまう。
それから一世紀余り。1271年フビライが元を建国、清明上河図は再び宮廷に戻ってきた。しかし時をおかずして宮中で働く表具師に盗まれ、民間に流れた。
明朝になって悪臣・厳嵩が20年にわたり専制政治を強いていた頃、この絵が厳嵩の手に渡ったが、後に彼は失脚し、財産は没収、息子は斬首刑になった。

この絵に詳しい故宮博物院の研究員・単国強(单国强)氏の話。
「張択端が描いた清明上河図の真筆(つまり故宮博物院で所蔵している絵)にはいろんな伝説があります。
元朝廷に所蔵された後、盗難に遭いました。
明朝初期には陸完という者の手に渡り、その後顧氏に渡っています。嘉靖年間には厳嵩のものになり、その後明の朝廷に所蔵されるも、万暦年間にまた顧命大臣を務めていた馮保という太監によって盗まれています。馮保という人物は万暦帝即位当時に顧命大臣の地位にあり、後には東廠と司令監を監督する総管を務めるほど権力を持っていた太監です。
清明上河図における、明代最後の跋文を残したのは馮保です。この馮保、どうやって自分のものにしたのかというと、下っ端の太監を操って絵を管理していた絵師を酒で酔わせた隙に宮中から盗み出させたのですが、その下っ端太監に罪をかぶせて殺してしまいました。その後馮保には悲惨な運命が待っていました」

その後も明・清の時代、多くの皇帝と太監の間を行き来したという。で、最後は末代皇帝溥儀のものになった。

………
話が戻る。
8月8日、苏联红军发动八月风暴军事活动。
8月17日午後、溥儀は日本側から日本へ行くよう指示を受けた。まず通化から瀋陽まで小型飛行機で移動し、更に瀋陽から大型飛行機に乗って日本へ行く計画だった。瀋陽空港についてまさに日本へ発とうとしたとき、ソ連の飛行機が飛んで来た。で、ソ連兵に囲まれて溥儀はそのまま捕まった。

溥儀が捕まったとき清明上河図はどこにあったのか。
研究員・単国強氏の話の続き。
「当事者が後に回想したときの記録をみると、ソ連軍は清明上河図の行方を知るために調査をしています。3回調べたが結局見つけ出せなかったのです。」
ソ連側は溥儀に対し尋問を行っている(ソ連もこのお宝が欲しかったんだろう)。溥儀は「確かに最後まで自分の傍に有ったはず。搭乗しようとしたときに銃撃戦が始まり、必死で逃げた。その時あの木箱がどうなったのかわからない」と答えている。
よって多くの人間は、あの混乱の中でお宝は失われてしまったか焼けてしまったのでは、もしくはほかの場所にあるのではないかと考えていた。

1949年7月7日、元・東北博物館(今の遼寧省博物館)が開館。このとき東北人民政府は周辺各地で集められたお宝をこの博物館で管理するよう指示を出した。
1951年初頭、東北文化部文物局研究員だった楊仁トという人物が同僚たちと確認作業をしていた。その中に当時溥儀が失ったお宝たちも含まれていた。たまたま楊仁トが手にしたのが清明上河図と書かれた傷みのひどい巻物。広げて見ると歴代の人物の拔文と、所蔵印がついている。紙質も古いし真筆と判断され、すぐに北京の国家文物局に送られた。

その後の確認で、この絵は当時確かに溥儀によって瀋陽空港に運び込まれていたのだと分かった。なぜならこのお宝を見つけたのは空港の作業員だったから。ちゃんと政府の指示に従って東北博物館に送られていたものだった。これで謎は解けた。

ということで、この絵は北京故宮博物院に保管された。1973年にきれいに表装し直されて北京故宮の“鎮院之宝”となった。お宝はしっかりと保管されなければならない。だが多くの人に鑑賞もしてもらいたい。そこで、馮忠蓮(冯忠莲)という有名な女流画家が18年もの月日をかけ、1980年に臨模を完成させた。今我々が見ることができるのは、実はこの馮忠蓮女史が模写したもの。真筆は故宮博物院の倉庫に大切に保管されており、人々の前に出てくることはめったにない。

……以上、テレビ番組で言っていた内容。
番組の途中で司会者が、「歴史に“もし”があったとして、もし溥儀がこの絵を売ってイギリスに留学できていたら、満州国が生まれることはなかったかもしれません」、と言っていた。溥儀が若い頃の夢を実現できていたらどんなだったんだろう。

馮忠蓮臨模による清明上河図。
http://shuhua.ce.cn/calligraphy/sy/syrw/text/200810/16/t20081016_17088675_2.shtml

北京テレビ「国宝奇案之溥仪自偷清明上河图始末」
http://v.ifeng.com/documentary/history/201103/79dbe941-6c13-415e-9d99-57a623f5b00b.shtml
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