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zoom RSS 北京原人 周口店遺跡博物館 誰が北京原人の頭蓋骨を持ち去ったのか

<<   作成日時 : 2011/09/16 01:29   >>

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社会の先生がインコに「北京原人の化石って行方不明なんだよ」と教えてくれたのだそう。
さすが先生よく知っていらっしゃる。これからもどんどん教えてやってほしい。

北京中心部からぐっと離れた房山区周口店鎮の龍骨山という山で、北京原人の頭蓋骨が完全な形で発見されたのは1929年のこと。その後この山は1987年に「周口店北京猿人遗址」として世界遺産に選ばれている。山の中だから自然豊かで、虫や小さいトカゲがいたりして、また見学コースのはずれでは化石掘り遊びができたりして(もちろん係の人が仕込んでくれたやつ)、子供連れでもそれなりに遊べるようになっている。山の中にある洞窟や崖なんか見ていていると、すごくワクワクした気持ちになれる。価値のあるものでも拾えないかなあって。

で、この場所には「周口店遺跡博物館」が建っていて北京原人の勉強ができるようになっている。
骨の化石も沢山置いてあるが、この地では他にも10〜20万年前の新洞人とか1〜3万年前の山頂洞人も発掘されており、それらの化石もおいてあるので予備知識のないかささぎは混乱してしまった。
で、展示されていた肝心の北京原人の化石、それが本物かレプリカかだったかと聞かれると困る。記憶が無い。3年前の記憶を手繰りながら当時撮った写真を探してみたが博物館内で撮ったものが1枚も無い。館内は撮影禁止だったのかもしれないし、たいして面白くなかったから撮らなかったのかもしれない。

館内でなく、外の見学コースの看板の写真は残っていた。それにはしっかりした日本語でこう書いてある。
「北京原人遺跡、すなわち周口店第1地点は、元々は石灰岩からできた山腹の洞窟であった。北京原人が周口店に住み始めたのは46万年前で、その後約20万年前まで、この洞窟に住み着いていた。北京原人の遺骨、遺物、遺跡や洞窟の崩壊による石塊、洞窟の外から流れ込んだ土砂が洞窟の中で厚い堆積層(その範囲は、東西に約140m、南北に40〜2m、厚さ40mあまりで、13層に分かれている)を形成している。
 この遺跡は1921年に発見され、1927年から系統的な発掘調査が行われたが、1937年七・七事変がおこり、調査は中断し、解放後再開された。数十年にわたり、おもに堆積物の中部(約27000㎥)が発掘されてきた。その結果、200点に近い人類化石(40個ほどの原人の固体を含む)、数万点の石器、数層の灰の層や200種に近い動物の化石が発見された。ここは、世界の同時代の遺跡において最も豊富で、全面的かつ代表的な原人遺跡とされ、科学研究や人類の大昔の文化史上きわめて重要で輝かしい地位を占めている…」

日中戦争後の発掘でも見つかっているので、北京原人の化石が全て無くなってしまったというわけではない。
これ、検索していて見つけた記事。中国科学院に保存されている頭蓋骨の一部が、2004年の秋に公開されていた。写真つき。
http://news.sina.com.cn/o/2004-10-01/04543816015s.shtml

最初の頭蓋骨が見つかった場所。
画像


…………
北京原人の頭蓋骨の化石って、一体誰がどうしてしまったのか。失くしてしまったのは日本人じゃないかと思っている中国人もいる。

これは、周口店遺跡博物館についての百度の説明。この文章では失くしたのはアメリカ人ということになっている。
http://baike.baidu.com/view/1175308.htm
「1941年前发现的北京猿人及山顶洞人化石有绝大多数在珍珠港事变前后被几个美国人弄得下落不明,时至今日,这些珍贵资料仍如泥牛入海」。

これは、北京テレビの“档案”という番組。「谁盗走了北京人头盖骨(誰が北京原人の頭蓋骨を持ち去ったのか)」という題名をつけ、発見されてからわずか12年で失われてしまった北京原人の頭蓋骨の行方を追う構成になっている。
http://space.btv.com.cn/video/VIDE1300241665659363
内容は:
1929年12月2日、裴文中が完全な頭蓋骨を最初に発見。
1936年贾兰坡が完全な頭蓋骨3つと下顎骨1つを発見。
1937年盧溝橋事変、発掘作業中止。
1941年協和医学院中国地質調査所新生代研究室に保管されていた合計5個の化石が国民党政府とアメリカで交わされた協議に基づいて移送される過程で紛失。

北京原人を最後に見たことになる胡承志という人物の証言。化石を二つの木箱に分けて梱包した人。
梱包済みの木箱は協和医学院F楼4号保管室に置かれた後、アメリカ公使館の手配で、アメリカ軍軍医の個人名義で1941年12月5日にアメリカ海兵隊同行のもと前門駅から秦皇島まで鉄道で直接運ばれた。
(日本側の目を避けるためにスーツケース数個に分けて運んだという説もある)
それから更に定期船“哈里逊总统号(ハリソン号)”でアメリカに運ばれる予定だったのだが、結局この船は予定通りに入港しなかった。12月8日太平洋戦争開戦で、北京天津秦皇島一帯のアメリカ関連施設が日本軍に押さえられてしまい、同行していたアメリカ軍医も捕虜になり、結果、化石の行方がわからなくなった。

このときに日本人が持ち去ったのではと考えられるが、そうでもないらしい。当時日本諜報員の錠者繁晴という人物が化石の行方を探しまわり、事情を聞くために裴文中の前にも姿を現したことがあるという。結局見つけ出すことができず1943年切腹してしまったのだそうだ。

太平洋戦争が終わってから裴文中は報告書を書いている。その中で1945年11月14日に東京の中央社の情報である「GHQが東京で化石を見つけた」という報道について触れている。
また、1946年1月1日北平英文実事新聞がロイター通信の情報として「東京帝国大学にあった化石がGHQへ運ばれた」という報道にも触れている。

1945年考古学者・李済が日本軍により持ち去られた文化財を取り戻す目的で来日している。1946年3月にGHQから「大学で確認したのだが日本の何処かにあるという証拠は見つけられなかった」と告げられ、アメリカ側の報告書にもそう記録されている。

そうなると、鉄道輸送に同行した“威廉・弗利”という1941年12月8日に行方不明になったアメリカ軍医が怪しい。
1971年のニューヨークタイムスの記事によるとこの人物は日本の捕虜になり天津を離れることができなくなってしまったため、ひそかに天津にあるスイスの倉庫と、“巴斯コ研究所”と、仲の良い中国人2人のもとに隠したのだという。
この記事を知った天津公安局はすぐ捜査を始めたが事情を知る者は現れなかった。2人の中国人については探し出し、預かった箱の中身も調べたが、医療器具や服やドルが入っていただけで化石など無かったことがわかった。
よって警察は秦皇島まで荷物が届いていなかったのではと考えた。

当時の噂には、日本の目を誤魔化すため、アメリカ側は表立っては化石を秦皇島に列車輸送するとしながら、実は天津に輸送していたのでは、というものもあるそうだ。

アメリカの人類学者・夏皮羅(Shapiro)博士は、天津のアメリカ軍兵営に化石が置かれたという記述をアメリカの資料に見つけたため1980年天津にやってきた。写真片手に天津博物館の人に付き添われてその場所を訪れたが40年の年月が経っており、そこは医科大学附属の衛生学校になっていた。化石を保管したとされる6号楼は1976年の唐山大地震で倒壊、すでに運動場に姿を変えていた。もちろん化石など発見されていなかった。

では、化石は北京に残されたままになっているのではないか?当時のアメリカ公使館があった場所や協和医学院や周口店の遺跡も調べたが発見には至っていない。

協和医学院にて細菌兵器の秘密の研究をしていたという731部隊の軍医だった元日本兵が臨終の際に残したと言われる言葉が90年代に注目を浴びたことがある。日本軍が北京を占領した際、協和医学院には確かに化石があり、そのままそこに保管されていたとか、後にここから東に約2キロの松が茂る場所に埋めて隠したとか、隠す際にはそこに生えていた木に軍刀で長さ1mにわたり皮を剥いで目印にしたとか、とかいう内容だった。
その場所とは日壇公園じゃないかということになり、実際に皮の剥げた木があったため中国科学院は探知機で地面を調べたところそれらしい反応がでた。で、1996年正式調査として深さ3mまで掘ったが、結局は何も出なかった。

1972年ニクソン大統領が訪中した時、中国側に特別な贈り物を用意していた。それは沈没した阿波丸の具体的な場所と貨物リスト。アメリカの意図はお互い協力して船を引き上げないかというものだった。
この船は1945年4月1日に福建沖、北緯25度東経120度、牛山島付近でアメリカの潜水艦クイーンフィッシュ(艦長は査理・拉福林、チャールズ・ラフリン)の魚雷で沈没している。ところがこの艦長はたった半月後に軍法会議にかけられた。理由は阿波丸が緑十字船だったから。資料によるとこの船には金が40トン、白金が12トン、工業用ダイヤが15万カラット積まれていたのだという。1977年に中国では7713工程と名づけこの船を海底70mから引き上げる作業を行った。技術的なことで全部を引き上げないまま1980年に終了している。
1949年4月7日日本は阿波丸賠償請求権を放棄した。なぜ簡単に放棄したのか。
そもそもなぜ当時この船がアメリカの攻撃を受けたのか。日本は何か隠しているのだろうか。化石はこの船にあったのだろうか…
…といった具合の番組。この内容が正しいのかかささぎには確認のしようがない。検索してみてこの番組よりもっと説得力のある解答を見つけた部分もあるが、一応今回は番組のとおりに書いてみた。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
关于北京原人头骨盖化石被盗的事情我还真不知道,小学时候课本上看过一些关于北京人,周口店等的图片,不过这些内容没去了解。我印象深的事是描写山顶洞人生活的文章,还想象过他们那样的生活。最初人类人员少并且是弱者,在一起互相帮助生存下去这一点我很喜欢。
kyo
2011/09/26 15:17
kyo先生:互相帮助生存下去…你说的非常好。生活在现代的我们也应该这样。我打算跟女儿说说“互相帮助”的深刻意义。
かささぎ
2011/09/28 09:13
China ABC----第十四章:中国历史:北京人化石下落之谜
北京原人化石の行方不明の謎
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140404.htm

北京原人の化石 行方不明の謎 - 北京市観光局 - 北京旅游网
http://japan.visitbeijing.com.cn/play/legends/n214782468.shtml

中国百科(日语版) 首页 > 日语阅读 > 中国百科(日语版) >
第十三章:歴史~千古のなぞ 北京原人化石の行方不明の謎
日期:2015-01-07 13:42 点击:234
http://jp.tingroom.com/wap/index.php?moduleid=21&itemid=22248

いったん中国駐在の米国大使館に運ばれたようなので、この時点で責任はアメリカへ。
zenbee
2015/03/30 10:04
テレビ大阪 中国世界遺産ものがたり
第248回「周口店の北京原人遺跡<8>」〜戦争に翻弄された遺産〜
http://www.tv-osaka.co.jp/ip4/sek/onair/koremade,1,list1,10.html
>北平協和医学院に保管されていた頭蓋骨は、1941年11月末のある夜、密かに運び出された。そして、アメリカ海兵隊の専用列車で、天津を経由して秦皇島の港へ。しかしその到着日は12月8日。秦皇島はすでに、日本軍に占領されていた。この混乱の中、北京原人の頭蓋骨は、忽然と姿を消した。一体どこで消えたのか。70年以上たった今も所在はわかっていない。

誰が運んだのか?運んだ人は生存するか?運んだ人の遺族は?等もう一歩踏み込めていれば・・・


いずれにせよ、何かと日本を責める中国人が(失礼)、前回の書き込みの内容を見る限り、この件に関しては雲行きが違う。
故周恩来総理の「中国人がアメリカ人に北京原人の化石の保管を頼んだが、アメリカ人がそれを落としてしまった。良識ある科学者ならばそれを探し出して返還するべきである」といった言葉通り、アメリカに謎解きの鍵が有るように思う。
zenbee
2015/03/30 10:17
人民日報社 更新時間 :2006年01月02日12:18 (北京時間)
消えた北京原人、やはり米軍施設に? 43年憲兵隊報告
http://j.people.com.cn/2006/01/02/jp20060102_56416.html
匿名希望
2015/04/01 03:41

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