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6月23日。自転車で炎天下北京めぐり2日目。 シミが確実に濃くなっている。この日は瑠璃廠の西側を目指す。 回民学校(回民huimin=回教徒)。広内大街223号。1925年設立。重点校。中学と高校がいっしょになっている。全部で57クラス、生徒数2500人余り、12の少数民族の学生と先生がおり全体の30%以上を占めている。 長椿寺。長椿街9号。北京市文物保護単位。山門は東側(下斜街側)。1592年明の時代、神宗帝が母親の孝定李太后の健康長寿を願って建立したもの。李太后は死後「九蓮菩薩」と呼ばれるようになり寺には九蓮菩薩画が残っている。明朝最後の皇帝崇禎帝が生母孝純劉太后を偲び奉納した画は文革で紛失した。また滲金多宝仏銅塔は万寿寺に移されている。以上百度の説明。 2005年から宣南文化博物館になっている。無料。北京城南の事が詳しくあるので勉強になる。 上斜街56号。東莞会館旧址。年羹堯旧宅。かなり傷んでいるがとても大きな門構えをしている。年羹堯は康熙〜雍正時代にチベットや青海での戦争や反乱で功績を挙げ大将軍として重用されるが最後は粛清された人。詳しい事は全然わからないので百度を。 http://baike.baidu.com/view/41643.htm 上斜街50号。番愚会館。龔自珍故居。龔自珍(1792〜1841)清代の思想家で文学家。道端の人に確認はしたけど、本当にこれなのか(この裏には確かに古い家屋がかなりある)、ちょっと自信のない写真。 上斜街は北京の胡同にしては珍しく坂道で更に道路両側にある建物が階段で結構あがらないと入れないほど高くなっている。昔は金水河がここを流れていた。川が無くなって道路になったわけ。 道路沿いの壁の絵。上斜街はガイド本の言うとおり確かに昔懐かしい匂いがする。 金井胡同1号。沈家本故居。1990年宣武文物保護単位。ここは1900年以降の自宅。沈家本(1840〜1913)、浙江帰安(今の呉興)人、清朝光緒年間に進士となり、刑部左侍郎、大理寺正卿、法部右侍郎、資政院副総裁などを歴任した、清末の法律改正の中心的人物である。中国古代法学を詳しく調べ総括した。また近代西側の法律理念を導入し、時代に見合った法制を定め、中国近代法制の発展に重要な作用をもたらした。沈が記した「沈寄簃先生遺書」はわが国古代法律研究の重要な文献になっている。「枕碧楼」は故居内の蔵書楼のことで、蔵書は5万巻余りになる。以上プレートの説明。 法律を改定し凌遅・梟首・戮屍などの酷刑の廃止を建議したというのは百度の説明。 儲庫営胡同17号。四川会館。 上斜街36号。河南会館。 この上斜街は宣武門外大街に下る。急に近代的に。大きなビル(環球財訊中心)が目の前。 北京の今と昔の激変振りはわずか数十メートルの差。 達智橋胡同12号。楊椒山祠(松筠庵)。ここは松筠庵と呼ばれ楊椒山の北京の自宅であった。楊継盛(1516〜1555)、号は椒山、河北容城人。明朝嘉靖年間の有名な忠臣。権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。以上プレートの説明。 校場口胡同40号。洋館風建物。 校場口頭条17号。山東会館。 校場口頭条7号。雲南会館。国歌を作った聶耳が住んでいた事がある。 山西街甲13号。荀慧生故居。1986年宣武区文物保護単位。荀慧生(1900〜1968)。中国京劇の「四大名旦」のうちの一人。有名な王瑤卿を師と仰ぎ、京劇の継承と発展に務めた。また河北梆子(河北の地方劇)を取り入れ、歌い方、身のこなし、服装、化粧などを革新し、徐々に自分の風格に作り上げ、世に言う「荀派」として、中国京劇芸術の新しい発展に貢献した。中国戯劇家協会芸委会副主任、北京市戯曲研究所所長などを務めている。以上プレートの説明。 崩れそうな建物だが一般人がちゃんと住んでいる。胡同1本先まで取り壊しが始まっている。 魏染胡同30号。京報館。邵飄萍が1916年以後に住んでいた場所。「京報」は1918年に創刊、元の場所は宣武門外珠巣街にあり、1920年にここに移転した。邵飄萍は浙江金華人で、「京報」の創刊者、有名な近代ジャーナリスト。「京報」の創刊目的は進歩的思想を宣伝し、封建軍閥制度に反対し、マルクス主義理論など進歩的な思想を客観的に紹介することであった。「新聞救国xinwenjiuguo」を広く提唱し、新聞雑誌により人民の自覚を呼び起こそうとした。1926年反動軍閥に殺害された。毛沢東同志は邵飄萍を「熱い理想と優れた品性を持った人」と高く評価した。以上プレートの説明。 京華印書局。虎坊橋交差点北西角。2003年北京市級文物保護単位。前身は光緒十年(1884年)にできた「xie華書局」という名の官営印刷機関。光緒三十一年に上海商務印書館が出資して引継ぎ、京華印書局と名前が改められた。1937年に生産が停止された。ビルには「1920」「瑞祥大廈」と書かれている。当時としては珍しい鉄筋コンクリート構造とか。 梁家園北胡同5号。四合院。 后孫公園胡同27号。安徽会館。2006年全国重点文物保護単位。元は明末清初の学者、孫承澤の住まいであった「孫公園」の一部分。清朝康熙年間、ここの戯楼で公演が行われた。孫承澤の後も有名人が住んだ。例えば乾隆時代の内閣大学士翁方綱など。1869年北洋大臣李鴻章とその兄湖広総督李瀚章ほか淮軍諸将が資金を集めこの孫公園の大部分を購入して1871年に安徽会館を立てた。この安徽会館は他の会館と違い、受け入れたのは県級官員及び副参将以上の人間であった。1898年ここは康有為ら維新党の活動場所になった。八カ国連合軍に占領されドイツ軍司令部に使われたり、近所の火事に焼かれたこともある。戯楼は大きく北京四大会館戯楼の一つに数えられる。2000年に戯楼など中心部分に改修が行われた。以上百度の説明。 百度の説明はもっと長くて面白い。http://baike.baidu.com/view/174332.htm 写真を撮ってるとお婆さんが寄って来て、せっかくきたのだから中に入っていきなさい、と薦めてくれた。 「老房子」一般居住区の潜入チャンスがやっと巡ってきた。 門をくぐってすぐ驚いた。敷地は相当広いが、人ひとり通るのがやっとなほど建物が密集していて先が見えない。迷路状態。無理だと思った。迷子になったら恥ずかしいので、慌てて戻ったらあのお婆さんが「前に進んだら右に行くのよ」と再度言ってくれる。励まされたのでもう一度だけやってみようと思った。 清朝建築か後建てしたものかすっかりわからなくなっているほど全体が一体化している。よそ様のお宅を土足で上がってしまったような決まり悪さ。知らない場所でかくれんぼしたときのお腹が痛くなるような気分もした。 でも、あのお婆さんにはお礼を述べたい。いい経験をさせてもらった。こんな迷路が全国重点文物保護単位だなんて(的外れ)。突然目の前に戯楼がどんと現れたりするのだ(予備知識が無かったので感動もひとしお)。何とか隣の胡同へゴールできた時のうれしさもひとしお。ああ生き恥をさらさずに済んだと思った途端、汗がどっと噴出した。 隣の番地、后孫公園胡同25号。(孫公園だった場所なので実際は隣とつながっている) 門墩mendunは珍しいお獅子。北京ではここだけということだ。初めて見た時、前足が壊れてるのかと思った。 その後、瑠璃廠にも行ったがやはりひやかしでもやらないと楽しくない。疲れたので自転車を置いて帰ってきた。 この日は本当に暑かった。無性に「酸梅湯」が飲みたくなりペットボトル入りのを買った。北京の暑さには北京の飲み物が合うような気がする。他にもペットボトル2本とさらにアイスキャンデーまで食べた。アイスキャンデーは「老氷棒」にかぎる。 にほんブログ村 |
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